「知識」で見る西洋美術
松浦弘明
ここ数年、インターネットの普及により、西洋美術に関する情報は比較的容易に手に入るようになりました。とはいっても、2500年以上もの歴史がある西洋美術のなかで、多くの日本人が関心を抱いているのはいまだに近現代であり、特に印象派に親しみを感じている状況は、百年以上前からあまり変わっていないように感じます。その一因はモネやルノワールらの作品が日常生活や自然の美しさを中心に描いており、鑑賞者は自身の「感覚」で楽しむことができるからでしょう。その一方で17世紀以前の西洋美術になかなかなじむことができないのは、古代思想や神話、キリスト教に関する「知識」がないと、描かれている内容すらわからないからだと思われます。作品にアプローチするためのこうした「壁」を少しでも取り除くことが本コラムの目的です。
この連載の記事
1. 西洋美術史の全体像を把握する(1) ―古代から中世へ―
「西洋美術史」の概説書というと、決まって古い時代から年代順に作品を追いかけていきます。皆さんの中にも、その順序通りに読み始めて、最初の古代の章で早々に断念してしまったという経験をお持ちの方はいらっしゃいませんか。概説書を途中で放り出してしまうひとつの理由として、美術史全体のおおまかな展開を把握しないまま、ただなんとな
2. 西洋美術史の全体像を把握する(2) ―ルネサンス―
西洋美術史の全体像を把握するための2回目のコラムでは、「ルネサンス」を取り上げます。その特徴を明確にするために、まずは前回、お話しした中世美術を簡単におさらいしておきましょう。
3. 西洋美術史の全体像を把握する(3) ―ルネサンス以降―
前回のコラムで見たように、ルネサンスの画家たちが基本的に目指したのは、その場に実在しないものをあたかも在るかのように見せる「イリュージョン」を創出することであり、それはジョットに始まり、レオナルド・ダ・ヴィンチによってほぼ完成します。このことはルネサンス絵画の代表作と考えられているレオナルドの《最後の晩餐》[図1]を
4. ルネサンスと古代(1) ―ミケランジェロが見た古代彫刻—
西洋美術史の大きな流れをたどっていくと、写実表現が基本軸となって展開していることがわかります。そしてそれは
5. ルネサンスと古代(2) ―《ラオコオン》の発掘とその影響—
第4回のコラムではミケランジェロが制作した《ダヴィデ》が、いかに古代の彫像《アポロ》と様式的に近いのかを検証しました。今回は彼に大きな影響を与えたもうひとつの古代彫像《ラオコオン》
6. ルネサンスと古代(3)―システィーナ礼拝堂天井装飾に見られるふたつの様式—
ジョットに始まるルネサンス美術では、聖なる人物や物語があたかも眼前に現れたかのようなイリュージョニスティックな表現を基本的に目指していたのですが、1500年頃までは作品全体の調和や自然らしさを重視していたため、人物像の過度の運動性や感情の表出はほとんど行われることがありませんでした。そのため、1506年に古代群像《ラ
7. ミケランジェロによる物語表現(1)―システィーナ礼拝堂の『創世記』連作①—
ルネサンスを代表する壁画のひとつであるシスティーナ礼拝堂天井装飾は1508年秋から1512年10月にかけて、ミケランジェロによって制作されました。前回のコラムでは、この礼拝堂に表されている預言者像を中心に考察を行い、1511年8月14日の途中公開以前と以後では、様式が大きく変化していることを確認しました。そしてその一
8. ミケランジェロによる物語表現(2) ―システィーナ礼拝堂の『創世記』連作②—
1508年秋に始まったシスティーナ礼拝堂の天井装飾は、1511年8月14日、一旦中断します。その際、足場が取り外され、ミケランジェロ自身も20メートル程下の床から、壁画を確認することができたはずです。彼は預言者や巫女の像が想定した以上に小さく、迫力に欠けていることを痛感したに違いありません。そのため1511年秋から始
10. 初期キリスト教時代の聖堂装飾―ラヴェンナのガッラ・プラチーディア廟堂―
紀元前1世紀半ばにヨーロッパの主要地域を支配下に置いていた共和制ローマは、紀元前27年にオクタウィアヌスが初代皇帝アウグストゥスとなることで帝政へと変わります。そこでは基本的にギリシア・ローマの神々が崇拝されていましたが、各地域における伝統的な宗教も認められていました。紀元前63年以来、ローマに統治されていたイスラエ
11. 聖堂に残る最初期の「キリスト伝」連作(1) ―ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂①―
キリスト教が国教化された3年後の395年、テオドシウス帝の死にともなって広大なローマ帝国の領土は二分割され、西ヨーロッパにホノリウス帝が治める西ローマ帝国が誕生します。アドリア海に面したラヴェンナは帝国の首都として402年から455年まで大いなる繁栄を遂げるのですが、この時期に建てられたサンタ・クローチェ聖堂付属礼拝
12. 聖堂に残る最初期の「キリスト伝」連作(2) ―ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂②―
キリスト教がローマ帝国の国教となった392年から1世紀程後の497年、イタリア半島に東ゴート王国が建国されます。テオドリクス王は首都ラヴェンナに宮殿を構え、それに隣接する場所に「救世主イエス」に捧げる宮廷聖堂を建てさせました。後にサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂と呼ばれることになるこの教会には、6世紀初頭に制作された
13. 中世最初期の聖堂装飾(1)―ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂①―
北イタリアのラヴェンナは、5~6世紀に西ヨーロッパで中心的役割を担った都市です。この時期はローマ帝国でキリスト教が国教化(392年)されて間もないこともあり、ラヴェンナに現存している聖堂とその装飾は極めて重要な意味を持っています。その150年程の繁栄期は大きく3つの時代に分けられますが、これまで本コラムでは西ローマ帝
14. 中世最初期の聖堂装飾(2) ―ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂②―
547年に献堂式が挙げられたサン・ヴィターレ聖堂は、都市ラヴェンナの第三黄金期を代表する教会です。前回はその建築上の特徴を概観した後、プレスビテリウム(内陣)の天井とアプス(後陣)の上層部に施されたモザイクを見ていきました
15. 中世最初期の聖堂装飾(3) ―ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂③―
これまで2回に渡って、サン・ヴィターレ聖堂のモザイク装飾を見てきましたが、今回は主祭壇に最も近い場所、プレスビテリウム(内陣)側壁の最下層部
16. 中期ビザンティン聖堂とその装飾(1)―イントロダクション―
キリスト教がローマ帝国で国教化された392年以降、5~6世紀にかけてヨーロッパ各地で聖堂が次々と建立されていきます。それらのなかで特に重要だと考えられているラヴェンナの聖堂を、内部の装飾を中心に6回に渡って見てきました(