ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂は、同時代の東ローマ帝国の美術、すなわち中期ビザンティン美術から大きな影響を受けていると言われています。実際に5つの円蓋を備えた聖堂建築は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにあった使徒聖堂(1460年代に取り壊し)をモデルにしたようです(第20回コラム参照)。また本堂内部を壮麗なモザイクで装飾している点も、同時代の東ローマ帝国の主要聖堂で用いられていた手法と通じます(第16~19回コラム参照)。
では、サン・マルコ聖堂内部の装飾[図1]は純粋に中期ビザンティンのタイプと言えるのでしょうか。今回はこの問題について、サン・マルコ聖堂のモザイクをオシオス・ルカス修道院やダフニ修道院の装飾と比べながら検討してみることにしましょう。

内部装飾の概要
堂内の装飾は総督ドメニコ・セルヴォ(在位:1071-84年)の時代に始まり、コンスタンティノポリスから招聘されたモザイク師が中心になって進められたと考えられています。献堂式が挙げられた1094年の段階で内部のモザイクはある程度、仕上がっていたはずですが、1106年の火災のため11世紀のモザイクはほとんどが損壊してしまい、現存しているのはアプス(後陣)下層部のみです。現存する本堂内のモザイクの主要部分は12世紀後半、そしてナルテクス(玄関間)の装飾は13世紀に入ってから施されました。
さらに14~16世紀にも、パオロ・ウッチェッロやジョヴァンニ・ベッリーニ、ティツィアーノといったルネサンスの画家たちが下絵制作に関わっていきますが、その後のテッセラ(モザイクを構成する小片)の落下によって、かなりの部分が修復されたり、新たに作り直されたりしています。
この広大なモザイクの内、今回は本堂内の円蓋とアプスの装飾について見ていこうと思います。というのもこれらの空間は、中期ビザンティン聖堂においては最も重要なランクに位置付けられているからです(第17回コラム参照)。その代表的な例であるオシオス・ルカス修道院中央聖堂[図2]には2つの円蓋が存在しますが、主円蓋の直径が約9メートルに対して、祭壇上の小円蓋では3メートルほどしかありません[ 図3のAとBを比較]。

[図3]オシオス・ルカス修道院中央聖堂 プラン(右)
ですから聖堂の訪問者へのインパクトという点では、前者が後者を圧倒的に上回っていると言えるでしょう。
一方、はるかに大きな規模のサン・マルコ聖堂では円蓋は5つあり、そのいずれもが直径13メートル近くあります。上空から見ると交差部の主円蓋はより高く、周囲の円蓋を従えていますが、実際に本堂内に入ってみると、身廊上に並ぶ3つの円蓋の間に空間上の階級の違いはほとんど感じられません[図4, 5]。

[図5]サン・マルコ聖堂内観(右)
それらと比べると、入口側からは視界に入らない翼廊の2つの円蓋[図6のD, E]は明らかにより低いランクに位置付けられるでしょう。実際に翼廊の円蓋にはイエス・キリストのエピソードは表されていません(左翼廊:福音書記者ヨハネ伝、右翼廊:諸聖人像)。

したがってここでは、身廊の3つの円蓋[図6のA, B, C]に絞って見ていくことにしましょう。
中央円蓋の装飾
交差部の主円蓋[図6のA]を飾っている主題は、『使徒言行録』(1:9-11)に記された《キリストの昇天》[図7]です。
中央には天を表す星空のメダイヨンが置かれ、その内に全身像のイエス・キリストが虹を表すアーチ上に腰かけています[図8]。

[図8][図7]の細部(右)
このメダイヨンは4人の天使によって支えられ、下方では12人の使徒の内の何人かがイエスを見上げています。彼らに対して、聖母の両側に立つ2人の天使は、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に挙げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と語っています。
本堂の中に入ったら、まずはこの中央円蓋の真下に立って、上方を見上げてみましょう。そうすると使徒たちと共にイエスの昇天の場に立ち会っているように感じられるかもしれません。
このように主円蓋に《キリストの昇天》を表すことは、東ローマ帝国内に先行作例を見出すことができ、そのひとつがテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂のモザイク(9世紀末)[図9]です。

しかしながら帝国内では11世紀以降、オシオス・ルカス修道院やダフニ修道院の中央聖堂で見たように、この空間は《パントクラトールのキリスト》で飾られるようになります(第17回コラム参照)。それは紀元1000年以降の信者たちにとっては、遠くイスラエルの地で大昔に昇天したイエスよりも、まさに今、「最後の審判」に備えて天の中心から自分たちの一挙手一投足に目を光らせているイエスの方が、はるかにリアルな存在であったからだと思われます。
東側円蓋の装飾
それではサン・マルコ聖堂では、《パントクラトールのキリスト》[図10]はどこに表されているのでしょうか。交差部から聖堂奥の方へ少し進み、主祭壇の上方を見上げてみましょう。まさにこの東側の円蓋[図6のB]に、天上で神と一体化したイエス・キリストが表されているのです。

中央のメダイヨンには星空に包まれた半身像のイエス・キリストが、そしてその周囲には13人の旧約聖書の預言者たちと聖母マリアが全身立像で表されています。オシオス・ルカスやダフニの修道院[図11]では、イエスは聖堂を訪れる者に「神」としての威厳を誇示するかのように、預言者たちよりもはるかに大きな姿で表されていましたが、サン・マルコ聖堂では他の像とほぼ同じ比率になっています。

そのため、より自然な表現にはなってはいますが、地上の人々の行動を監視する神としての畏怖は完全に失われてしまっているのです[図12, 13]。

[図13][図11]の細部(右)
この東側の円蓋は主祭壇の真上に位置しますが、オシオス・ルカス修道院中央聖堂でそれに対応する小円蓋[図3のB]には《聖霊降臨》が表されています。その主題はサン・マルコ聖堂では西側の円蓋[図6のC]に移されています。そこで主祭壇から再び主円蓋の下を通って入口の近くまで移動しましょう。
西側円蓋の装飾
『使徒言行録』(2章1-13)によると、五旬祭の日、つまりイエスが昇天した10日後に天から聖霊が使徒たちに降り注ぎ、その直後に彼らは多様な言語で話し始めます。それを聞いたエルサレム在住の異民族の者たち(メソポタミア、カッパドキア、エジプト、クレタ、アラビアなど)は、ガリラヤ出身の使徒たちが様々な地域の言語で「神の偉大な業」を語ることに驚くのです。
サン・マルコ聖堂のモザイク[図14]では、中央に聖霊を象徴する白い鳩が玉座にとまり、そこから放射状に椅子に腰かけた使徒たちのもとへ「炎のような舌」となって下っています。この図像はオシオス・ルカス修道院に表されている同主題のモザイク[図15]とほぼ同じと言っていいでしょう。

[図15]《聖霊降臨》 11世紀前半 オシオス・ルカス修道院中央聖堂(右)
ただ円蓋そのものの規模がはるかに大きくなっているので(直径にして4倍強)、聖霊と使徒たちとの間隔は広がり、円蓋の四隅のスキンチに押し込められていたエルサレム在住の異民族は円蓋最下層の明かり窓の間に移され、16の民族がより詳細に再現されています。
中期ビザンティン聖堂装飾との違い
オシオス・ルカス修道院中央聖堂の装飾では、主円蓋の《パントクラトールのキリスト》、アプスの《玉座の聖母子》、小円蓋の《聖霊降臨》によって、「三位一体」という重要概念を視覚化していました(第17回コラム参照)。
しかしながらサン・マルコ聖堂を訪れる者は、「三位一体」を明確に認識することはありません。主円蓋に《キリストの昇天》、入口側の円蓋に《聖霊降臨》、そして祭壇上の円蓋に《パントクラトールのキリスト》という配置は、キリスト教会が想定している「キリストの受難」後のイエスのプロセスを、わかりやすく堂内で再現しているように思われます[図16]。

このことはアプスの装飾からも推察できます。オシオス・ルカス修道院では、アプスには《玉座の聖母子》が置かれ、「人の子」としての神を表していました。ところがサン・マルコ聖堂では、《玉座のキリスト》[図17]が配されています。

現在、私たちが目にしているこのモザイクは、下部の銘により1506年に作り直されたものであることがわかるのですが、元々の装飾も同じ主題だったはずです。この像は再臨して「最後の審判」を行ったイエスが理想の王国の王となった姿なのでしょう。
つまりサン・マルコ聖堂では、「三位一体」という概念を視覚化したわけではなく、聖書の記述に基づくエピソードを順に展開しようとしているように思われます。主円蓋に「キリストの昇天」を置き、その10日後に使徒たちの身に起きたことを入口側の円蓋で、そして天で神と一体化したイエスを祭壇上の円蓋で表し、天から再臨した彼が天国の王となった姿がアプスで再現されているのです。言い換えるならば、主円蓋と入口側の円蓋は過去のイエスを、祭壇上の円蓋は現在のイエス、そしてアプスは未来のイエスを表しているのです[図18]。

このように聖書の記述に基づいて、イエスに関する主題を時系列に即して表すことは、西欧の聖堂、例えばサンタンジェロ・イン・フォルミスのサン・ミケーレ聖堂で確認したプログラム(第20回コラム参照)に近いと言えるでしょう。
このことを踏まえて、次回は主円蓋周辺のモザイクを見ていくことにしましょう。