547年に献堂式が挙げられたサン・ヴィターレ聖堂は、都市ラヴェンナの第三黄金期を代表する教会です。前回はその建築上の特徴を概観した後、プレスビテリウム(内陣)の天井とアプス(後陣)の上層部に施されたモザイクを見ていきました[図1]

[図1]プレスビテリウムとアプスの装飾 547年頃 サン・ヴィターレ聖堂

 今回はアプス下層部とプレスビテリウム側壁の装飾に注目し、その図像や様式について考察していきましょう。

皇帝ユスティニアヌスを表したモザイク

 アプス上層部に表された《楽園のイエス・キリスト》の下には、本聖堂が建てられた当時の人物たちが表されています。まずは向かって左側のモザイク[図2]から見ていくことにしましょう。

[図2]《皇帝ユスティニアヌスと側近たち》 サン・ヴィターレ聖堂

  画面中央で冠をかぶっている男性は、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス(在位:527-565年)です。前回、お話ししたように、彼は540年に将軍ベリサリウスをラヴェンナに派遣し、イタリア半島全体の情勢を掌握するためにこの都市に総督府を設置しました。皇帝の隣に立ち、十字架を手にしている人物は頭上の銘によって、この聖堂の献堂式を行ったラヴェンナ大司教マクシミアヌスであることがわかります。

 彼らの背後には5人の人物が並んでいますが、右側の2人は聖書と香炉を携えていることから、マクシミアヌスの手助けをしている聖職者でしょう。この2人とは異なる服装をまとった3人はユスティニアヌス帝の側近で、皇帝の左に控える有髭の男性はベリサリウスではないかと言われています。さらに彼らの後方からは、ギリシア語で「救世主」を意味する  “XPIΣΘOΣ” の最初の2文字を組み合わせたキリストのモノグラムが施された盾や、槍を持つ兵士たちが続いています。

 彼らはいずれも彫像性が失われ、平面的に表されています。そして聖職者を先頭に行列をつくっていますが、皇帝や大司教は正面性が強く、自然な動きがまったく感じられません。彼らの目は大きく見開いており、モザイクを見る者を威圧しているかのようです。しかも皇帝は列聖されていないのにもかかわらず光輪が施されており、その聖性が強調されています。

 一方、空間表現に目を向けると、天井の格間(ごうま)が中心部から両端に向けて広がっており、いわゆる「逆遠近法」で表現されています。また、同一の高さの人物像を横一列に隙間なく並べて、床と奥壁を仕切る線を見えなくすることで、部屋の奥行を消しています。こうした手法を用いることで、このモザイクの作者は非現実的な空間を意図的に創り出そうとしているようです。

 皇妃テオドラを表したモザイク

 皇帝ユスティニアヌス像と対峙するように、アプスの右下には皇妃テオドラ(500年頃-548年)と従者たちを表したモザイク[図3]が施されています。 

[図3]《皇妃テオドラと従者たち》 サン・ヴィターレ聖堂

 数多くの貴石からなる冠をかぶった皇妃は、左右に2人ずつ男女の側近を引き連れ、教会のアプスを想起させる荘厳な建築モティーフの前に並んでいます。そのうちのひとりは、門の前で幕を開き、皇后を部屋の外へ導いているようです。側近たちの後方では、5人一組となった侍女たちが続き、その上方には3色の天幕が垂れ下がっています。

 皇后は皇帝同様、光輪が付され、側近ともども正面性が強く、その聖性が強調されています。彼女たちの体やそれを包み込む衣には陰影がほとんど施されておらず、実に平面的に見えます。一方、室内はここでも全体的に奥行は感じられませんが、皇后の背後の建築モティーフや、部屋の出口の手前に洗礼盤らしき噴水が置かれていて、皇帝が置かれている部屋よりも現実的な空間になっています。

 中世美術様式の幕開け

 アプス下層部のモザイクに登場する人物像は、それが制作された時代の人々であるにもかかわらず、その身体は彫像性を持たず、表情やポーズには人間らしさが感じ取れません。そして彼らの周囲の空間は室内を想起させるものの、現実の部屋としての広がりがほとんど表されていないのです。

 こうした表現は技術的な拙さから来るように見えてしまうかもしれませんが、制作者はおそらく意図的にこのような「反写実的な表現」を行っているのでしょう。100年程前に制作されたガッラ・プラチーディア廟堂のモザイク[図4]では、壁面の奥へと広がる空間が再現され、そこに彫像的で動きを感じさせる人物がしっかりと台の上に立っていました。

[図4]《聖ペテロと聖パウロ》 5世紀前半 ガッラ・プラチーディア廟堂

 このモザイクには古代絵画特有のイリュージョニスティックな表現がいまだに色濃く残っているのです。それに対し、本堂の装飾では人物の聖性や空間の非現実性を強調するために、あえて写実的な表現から離れようとしています。その様式は、中世ならではの美術表現の幕開けを告げているのではないでしょうか。

 ガッラ・プラチーディア廟堂とサン・ヴィターレ聖堂のモザイクにおける様式上の変化については、第1回のコラム「西洋美術史の全体像を把握する(1) ―古代から中世へ―」で取り上げているので、そちらも参考にしてください。

 アプスの上層部と下層部の関連性

 前回のコラムで見たように、アプスの上層部(コンチ)には、天から再臨したイエス・キリストが「最後の審判」を終えた後、楽園の王の座に就き、聖ウィタリスに勝利の象徴である冠を手渡そうとしています[図5]

[図5]《楽園のイエス・キリスト》 サン・ヴィターレ聖堂

 彼らの周囲は、花々が咲き誇る緑の大地と金地背景によって、「楽園」という理想の世界が再現されています。前述したように皇帝や皇妃を描いたモザイクでも、周囲の空間はかなり非現実的に表されていますが、《楽園のイエス・キリスト》では、それをはるかに上回る神秘的な世界が広がっているのです。

 アプスの上層部と下層部の装飾に見られるこうした違いは、ふたつの異なる世界の支配者を対比しようとしているのでしょう[図6]

[図6]アプスの装飾 サン・ヴィターレ聖堂

 皇帝ユスティニアヌスは、当時、ヨーロッパで最大の領土を誇る東ローマ帝国の支配者、そしてイエス・キリストは現存する世界が終焉した後に誕生する理想世界の王として表されているのです。それと同時に、下層に表された皇帝は「最後の審判」の際に妻と共にイエスによって選ばれ、上層の「楽園」に入るであろうことを示そうとしているのかもしれません。

主祭壇と周囲の装飾との関連性

 ところでユスティニアヌス帝はパテナという「聖餐」(ミサ)の時に聖餅(ホスチア)を入れる籠を抱え、皇妃テオドラはやはり「聖餐」の際に使用する聖杯(カリス)を持っています[図7]

[図7]図2と図3の細部

  彼らは大司教マクシミアヌスから聖体を授かろうとしているのか、あるいはすでに授かったのかもしれません。これらのモザイクが主祭壇のすぐ後方に設置されているのは、本聖堂で実際に執り行われていた「聖餐」と緊密に結びつけるためだったと思われます。

 主祭壇の上方、プレスビテリウム側壁の最上層部に施されたモザイク[図8]にも同様のことが言えるでしょう。

[図8]プレスビテリウム側壁最上層部の装飾 サン・ヴィターレ聖堂

  頂部にイエスの磔刑を表す十字の文様が置かれ、周囲にはブドウのツタが広がっていますが、これは磔刑の際にイエスの体内から流出した血を表しています。そしてツタが入り込んでいる底部の甕とそこに集う鳥は、ガッラ・プラチーディア廟堂の側壁装飾と同様(参照:第10回コラム)、教会と信徒たちの象徴です。つまりこの半円形壁面のモザイクは、教会での「聖餐」を通して、神の恩寵を授かる信徒たちを表しているというわけです。彼らはこの秘跡(サクラメント)を受けることで、自分たちの罪を神に贖うために処刑されたイエス・キリストの死を想い、司祭によって祝福されたパンやワインにイエスが現存していることを感じ取るのです。

 「聖餐」の原点は「最後の晩餐」におけるイエスの言動にあり、サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂ではこの主題を表したモザイクが主祭壇の近くに配されていることは、前々回のコラムで確認しました(第12回 図7)。それに対しサン・ヴィターレ聖堂では、「最後の晩餐」の代わりにブドウのツタの装飾で「聖餐」を象徴的に表し、それを主祭壇の上方に置いているのです[図9]

[図9]主祭壇とブドウのツタの装飾との位置関係

 主祭壇により近い、プレスビテリウムの下層部のルネッタ(半円形壁面)には、旧約聖書の主題が描かれています。これらのモザイクも「聖餐」と関連付けることができるのでしょうか。そのことについては次回、考察していくことにしましょう。