はじめに

 西洋美術史の全体像を把握するための2回目のコラムでは、「ルネサンス」を取り上げます。その特徴を明確にするために、まずは前回、お話しした中世美術を簡単におさらいしておきましょう。

 ローマ帝国で392年に国教化されたキリスト教という新しい教えを広めるために美術は最大限活用され、主要作品はキリスト教関連の主題に限定されるようになります。そしてイエス・キリストは人であると同時に神でもあることが定められた451年のカルケドン公会議以降は、イエスをはじめとする聖人たちはその神性を強調するために、あえて人間らしい動きや感情を除去し、彼らの周囲の空間は非現実的な世界として表されるようになりました。その際、聖人像や聖なる場面の表現が時代や都市によって異なると、聖堂を訪れる信者たちが混乱してしまうので、主題に応じたプロトタイプ(基本の型)が6世紀後半にいくつか定められ、画家たちは基本的にそれに従うことが求められました。私たちがなじみのある長髪で有髭のキリスト像もこの時期に確立されたのです。

 中世において繰り返し描かれた「玉座の聖母子」もまた、そのプロトタイプをラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂のモザイク(560年頃)[図1]に見ることができます。

[図1]《玉座の聖母子》 560年頃 ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂

 この正面性が強く威圧的な聖母のタイプは、東ローマ帝国で長年に渡って継承されていきます。例えばポレッチのエウフラシウス聖堂(560年頃)、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)のハギア・ソフィア大聖堂(870年頃)、オシオス・ルカス修道院中央聖堂(11世紀初頭)[図2]などのアプス(教会の主祭壇後方の空間)に施されたモザイクは、制作された地域や時期は異なりますが、その表現はいずれもラヴェンナの聖母子像とあまり変わっていません。中世美術では作者の独創性は求められていなかったのです。

[図2]《玉座の聖母子》 11世紀初頭 オシオス・ルカス修道院 中央聖堂

ルネサンスの始まり

 聖堂の祭壇の上に板絵を置く習慣は11世紀に始まったと言われていますが、こうした祭壇画でも「玉座の聖母子」はもっとも頻繁に取り上げられる主題でした。フィレンツェ郊外グレーヴェにあるサンタ・マリア・ディ・カザーレ礼拝堂のために1230年頃に制作されたとされる板絵[図3]もそのひとつですが、ここに描かれている聖母子像の硬直した姿勢、大きく見開かれた眼、力強い線で構成された衣の襞(ひだ)、そして平面的な玉座といった特徴は、ラヴェンナやオシオス・ルカス修道院の聖母子像[図1, 2]と共通しており、中世の規範に基づいて描かれたことがわかります。

[図3]作者不詳 《玉座の聖母子》 1230年頃 フィレンツェ ウフィツィ美術館

 フィレンツェは13世紀初頭に2万5千人ほどだった人口が、同世紀末には4倍の10万人あまりに達しますが、それは毛織物業が基幹産業となり、著しい経済的発展を遂げたからです。そこで一気に裕福になった人々をブルジョワジー(中産階級)と呼び、彼らがこの新興都市の美術の発展に大きく寄与していくことになります。というのも、彼らはそれ以前にはない独自な表現を美術家に求めたからです。

 こうしてフィレンツェでは13世紀の半ば過ぎから画家の個性が少しずつ認められるようになり、その個人名が作品中や文書記録に記されるようになります。同時にイエスをはじめとする聖人を人間らしく表現することが広まっていきました。その一因として1226年に没したアッシジ出身の聖フランチェスコの存在が挙げられるでしょう。彼は極めて清貧な生活を日々送ることでイエスに近づこうとし、さらに1224年9月14日の「十字架称賛の日」にはフィレンツェに近いラ・ヴェルナ山において、イエスが十字架上で傷つけられた5か所(両手、両足、脇腹)と同じ所に傷跡ができたのです。

 この「聖痕拝受」をはじめとする数々のフランチェスコの奇跡をまとめた伝記、『レゲンダ・マイヨール』が1263年に出版されると、人々は彼をイエスのイメージと重ね合わせ、 “Imitatio Cristi(キリストのイミテーション)”とみなすようになりました。フィレンツェを中心とする中部イタリアの人々は同時代の聖フランチェスコを通して、イエスに対して親近感を抱き、それが人間らしい聖人像を生み出すきっかけを作ったと思われます。

 こうした新たな傾向は1260年代のコッポ・ディ・マルコヴァルド、70-80年代のチマブーエの作品に見ることができますが、中世の美術様式を革新的に変化させ、ルネサンス絵画の創始者とされるのがジョットです。彼がフィレンツェのオニサンティ聖堂祭壇画として制作した聖母子像[図4]を、80年程前に描かれた同主題作品[図3]と比較すれば、その違いは明白です。

[図4]ジョット 《荘厳の聖母》 1305-10年頃 フィレンツェ ウフィツィ美術館

 衣襞(いへき)を線で描くのではなく面で捉えられているため、人物像はいずれも堅固な彫像性を備え、聖母においては胸の膨らみによって女性らしさも感じられます。また時代の最先端のゴシック様式による建築的な玉座を、天使たちが取り囲むように置かれているため、画面内に手前から後方への3次元的な空間が創出されています。

 この板絵がオニサンティ聖堂の祭壇に設置された時、当時の人々はまるで自分の目の前に聖母子や天使が現れたかのように思ったことでしょう。ジョットは町の人々がどのような聖母子像を求めているかをしっかりと把握した上で、彼らの予想と期待をはるかに上回る祭壇画を完成させたのです。

ルネサンス絵画様式の本格始動

 ジョットの表現があまりにも革新的であったため、その後、中部イタリアの画家たちは彼の様式を手本として継承していきます。ジョットの作品が新たなプロトタイプになったと言ってもいいでしょう。この14世紀全般を「プロトルネサンス」と呼んでいますが、その状況が変化するのは15世紀に入ってからです。

 彫刻家ブルネレスキは1401年のフィレンツェ洗礼堂門扉装飾のコンクールでギベルティに敗れた後、ローマに滞在して古代の建築や彫刻を学び、フィレンツェに戻ってきました。1410年頃、彼は実在の人間をモデルにしたと思われるような木彫《十字架上のキリスト》[図5]を制作し、さらに建築をできるだけ正確に平面上に再現することを可能にした「一点透視図法」を発明したのです。そしてこれらの最先端の手法を絵画に初めて取り入れたのがマザッチョでした。

[図5]ブルネレスキ 《十字架上のキリスト》 1410年頃  フィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェラ聖堂

 彼が1426年にピサのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂祭壇画の中央パネルとして制作した聖母子像[図6]は、ジョットの同主題作品[図4]をはるかに超える写実性を備えています。

[図6]マザッチョ 《玉座の聖母子》 1426年 ロンドン ナショナル・ギャラリー

 ここに提示された聖母子像はいまだに聖なる威厳を備えていますが、それと同時に日常生活で目にするような実在の母と子を強く想起させます。像に施された陰影は単に彫像性を示すためではなく、一定の光源に基づいて施されています。それは人物像のみならず、すべてのモティーフに見られることから、聖堂の左上方の窓から祭壇に向けて照射される自然光がそのまま作品内に入り込んでいるように見えるのです。また玉座は一点透視図法に基づいて正確に描かれているので、聖堂を訪れた信者たちはジョットの祭壇画以上に聖母子の存在をリアルに感じ取ったことでしょう。

 様々な自然科学や技術を駆使して、実際にはその場に存在していないものをあたかも在るかのように見せる「イリュージョン」がルネサンス絵画の本質であるとするならば、それはまさにこのマザッチョから本格的に始動するのです。

理想形の確立

 マザッチョの新たな表現をもとに1470年頃に至るまで、マゾリーノやフラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、パオロ・ウッチェッロ、アンドレア・デル・カスターニョ、ピエロ・デッラ・フランチェスカといった画家たちがそれぞれ独自の試みを行っていきますが、この時期を「初期ルネサンス」と呼んでいます。絵画が次の段階である「盛期ルネサンス」に移行するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチが登場する1470年代のことです。

 彼はフィレンツェで10年程の初期活動を終えた後、1482年頃に活動拠点をミラノに移しますが、当地の「無原罪の御宿り信徒会(聖母マリアの絶対的純潔を信じる会)」からサン・フランチェスコ・グランデ聖堂内の祭壇画を依頼されたのが1483年のことです。現在、ルーヴル美術館に所蔵されている《岩窟の聖母》[図7]はその中央パネルとして制作されました。

[図7]レオナルド・ダ・ヴィンチ 《岩窟の聖母》 1483-86年頃 パリ ルーヴル美術館

 洞窟には左上の開放部から光が聖母マリアに向けて差し込んでいますが、それは天から神の霊が彼女に臨んでいることを表しているのでしょう。こうして神の子として生まれたイエスは、自身より6か月前に生まれた親戚の洗礼者ヨハネに祝福を授けています。一方、マリアはヨハネの肩に右手を添えながら左手は我が子の頭上にかざし、ふたりの幼児を穏やかな表情で見守っています。そのため3人はその視線やポーズによって、肉体的にも精神的にも極めて緊密に結びついており、彼らが作り出している大きな三角形を、右端の天使は指し示しながらこちら側を見ているので、彼を介して祭壇画を見ている私たちも画中の登場人物とつながっているような錯覚を覚えるのです。

 この祭壇画はマザッチョの作品[図6]と比べてどこがどのように変化しているのでしょうか。レオナルドは「絵画、すなわち人物を描いている作品では、描かれた人物たちのしぐさによって、彼らの感情を見る者が容易に察しうるように描かなければならない」(『アトランティコ手稿』139r.)と言っています。彼は単に解剖学的に正確で彫像的な人物像を描くのではなく、そのひとりひとりに精神性を与えているので、私たちはまるで感情を持つ生きた人間がそこにいるかのように感じ取れるのです。

 またレオナルドは「遠近法は絵画の手綱であり舵である」(『アッシュバーナム手稿』13r.)としています。マザッチョも線遠近法を用いて玉座を描いていましたが、その背後は伝統的な金地背景でした。それに対し、レオナルドは画面左側に地平線を示し、そこに向かって徐々に色調を淡くして形態をぼかすことで、手前の崖から地平線まで何キロもの奥行きを見る者に感じさせることに成功しているのです。

 人物像だけではなく、ここには洞窟の岩肌やそこに入り込む光や水、さらに植物といったモティーフも、極めて写実的に再現されています。画中に自身の思い描く世界を創造できるという点で、画家は創造主である神と似ているとレオナルドは考えていました。だからこそ彼はその創造行為を完璧なものに近づけるためにありとあらゆるものを徹底的に研究したのです。現存しているだけでも約5千ページにも及ぶ手稿(元々はその3倍近くあったとされる)には絵画論のみならず、解剖学や光学、水力学、天文学、気象学といった様々な分野に渡る研究が見られますが、それらの成果が絵画作品に提示されているわけです。こうした研究に多くの時間を費やしたレオナルドは、50年近くのキャリアの中でわずか10数点の絵画作品しか完成させていません。

 あらゆる事物や現象を徹底的に研究したレオナルド・ダ・ヴィンチによって、ルネサンス絵画の「イリュージョン」は完成の域に達したと言えるでしょう。