教皇ユリウス2世とミケランジェロ

 第4回のコラムではミケランジェロが制作した《ダヴィデ》が、いかに古代の彫像《アポロ》と様式的に近いのかを検証しました。今回は彼に大きな影響を与えたもうひとつの古代彫像《ラオコオン》[図1]を見ていきたいと思います。

[図1]ハゲサンドロス、ポリュドロス、アテノドロス 《ラオコオン》 BC.40-20年頃(原作:BC.170-159年頃) 208x163x112cm ローマ ヴァティカン美術館

 ミケランジェロがフィレンツェで《ダヴィデ》(1501-04年)を制作中の1503年、《アポロ》を自宅の中庭に飾っていたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿は教皇に選出され、ユリウス2世と名乗ることになります。そして彼はかつてないほど大規模な自身の墓碑を制作させるため1505年3月、《ダヴィデ》を完成させて間もないミケランジェロをローマに招聘[しょうへい]します。この計画に非常に乗り気だったミケランジェロは自らカッラーラ(編注:大理石の産地として知られる都市)へ赴き、巨大な大理石の塊をいくつもローマに送ったそうです。

 彼が意欲的に墓碑彫刻に取り組んでいた1506年1月14日、ローマの中心部であるサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の近くから、非常に良い保存状態で《ラオコオン》が発掘されました。すぐさま教皇ユリウス2世は建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロに現場へ赴くよう命じますが、ミケランジェロもそこに同行したということです。

《ラオコオン》の主題

 トロイアの神官であったラオコオンに関するエピソードは、すでにアルクティノスの『イリオス陥落』(紀元前6世紀)に記されており、その後もギリシアの著作家たちによって取り上げられましたが、広く知られるようになったのはウェルギリウスの『アエネーイス』(紀元前29-19年頃)の刊行以降でしょう。

 それによると、トロイアを陥落させることに苦慮していたギリシア軍は撤退したように見せかけて、巨大な木馬とともに弁の立つシノーンをこの町へ派遣します。彼は自軍がトロイアを征圧することをあきらめ、町の人々に敬意を表するために巨大な木馬をミネルウァ神殿に献上すると申し出ました。この時、神官ラオコオンは敵軍の狙いに気づき、木馬に向けて槍を放つのですが、そのことがきっかけで彼は2人の息子たちと共にヘビに絞め殺されてしまいます。これが女神ミネルウァの怒りによるものと考えたトロイアの人々は木馬を受け入れ、城内に持ち込むのですが、その中には敵軍の精鋭部隊が潜んでいました。その夜、彼らは木馬から抜け出し、城門を開けて外で待機していた味方の兵を引き入れたため、堅固なトロイアはあっという間に陥落してしまったのです。

 ローマの中心部で発見された群像は、ラオコオンが息子たちと共にヘビに絞め殺されそうになっている危機的状況を見事に捉えています。

古代ギリシア彫像における様式の変化

 ところで古代ギリシアにおいて等身大の丸彫り彫像の制作は、エジプトの墓碑彫刻の影響を受けて紀元前600年頃に始まりますが[図2]、徐々に写実的な表現へと移行し、紀元前500年頃には実在の人間を想起させるまでになります[図3]

[図2](左)《クーロス》 BC.590年頃 像高:194.6cm  ニューヨーク メトロポリタン美術館
[図3](右)《アリストディコス》 BC.500年頃 像高:195cm  アテネ 国立考古学博物館

とはいえ、相変わらず正面性の強いほぼ左右対称の直立した像であり、このあたりまでを「アルカイック期」と呼びます。紀元前5世紀に入ると、彫像により人間らしさを与えるために、支脚と遊脚を明確に分ける「コントラポスト」と呼ばれるポーズが採用されるようになり、ポリュクレイトスがこの様式を確立させたと考えられています[図4]

[図4]《槍を持つ男(ドリュフォロス)》 ローマ時代のコピー (原作:ポリュクレイトス BC.440年頃) 像高:212cm  ナポリ 国立考古学博物館

そしてその後、アレクサンドロス3世の時代(BC.356-323年)に、プラクシテレスやレオカレスといった優れた彫刻家たちによってクラシック様式は完成します。この連載で見てきた《ヘルメス》[第1回 図1]や《アポロ》[第4回 図3]はクラシック期の代表作と言えるでしょう。

 アレクサンドロス3世没後の紀元前3~1世紀を総じて「ヘレニズム期」と呼んでいますが、その時期の彫刻は主題も様式も多様化していきます。そうしたなかで、クラシック期には明らかに見られなかったあるひとつの傾向が、ペルガモン大祭壇のフリーズに施された装飾(紀元前170-159年頃)において確認できます。ここにはギリシアの神々と巨人族の戦い(ギガントマキア)が複数場面に渡って展開されているのですが、そのうちのひとつ[図5]では、巨人アルキュオネウスが女神アテナの操るヘビによって絞め殺されるところが表されています。彼の激しい動的なポーズや苦悶の表情は、全体のバランスを重視するクラシック期の彫刻には認められなかった表現です。

[図5]《アテナとアルキュオネウス》 BC.170-159年頃 フリーズの高さ:228cm  ベルリン ペルガモン博物館

 紀元前600年頃からの500年間におけるギリシア彫刻の様式変遷は、写実主義に基づいて人体表現を更新していこうとするとどうなるかを示すモデルケースと言えるでしょう。その変化は、中世末期からルネサンスを経由してバロックへと至る500年間の彫刻史において繰り返されることになるのです。

《ラオコオン》の様式上の特徴

 ここであらためて1506年に発掘された《ラオコオン》[図1]を見てみましょう。

[図1]再掲

神官というよりも鍛え上げられた運動選手のような肉体は弓なりにしなっており、腰と首を少しひねっています。そして苦悶の表情を浮かべながら、天に向けて叫んでいるようです。ヘビの攻撃に対して必死に抵抗する様は、すぐさまペルガモン大祭壇に表されたアルキュオネウス像を思い起こさせます[図1と図5を比較]。

[図1]の細部(左)と[図5]の細部(右)

渦巻く毛髪やうつろな目、半開きの口といった細部の表現まで両像はよく似ています。実際にその類似はすでにヴァニョン(1882年)やケクレ(1883年)といった19世紀の学者たちによって指摘されており、この群像の原作は紀元前2世紀の前半に制作された可能性が高いと考えられています。

 その一方で、この彫像は1506年の発掘当初からプリニウスの『博物誌』(77年頃)の記述と結びつけられてきました。それによると、ラオコオンと彼の息子たちが大蛇に襲われているところを見事に表した大理石像が、皇帝ティトゥス(在位:79-81年)の邸宅内に置かれており、ロドス島出身のハゲサンドロス、ポリュドロス、アテノドロスによって制作されたとあります。この3人の署名がローマ近郊のスペルロンガの洞窟から発見された別の群像(紀元前30-20年頃)に刻まれていることから、セッティス(1999年)はローマ軍がロドス島を掠奪した紀元前43-42年に、彼らはローマへ移住したのではないかと考えました。そして《ラオコオン》を紀元前40-20年頃に年代設定したのです。

 以上のことから、本像は紀元前2世紀前半にペルガモン周辺で制作された原作を、150年程後にハゲサンドロスらによってローマでコピーされたものではないかと推察できるのです。

《ラオコオン》がミケランジェロに与えた影響

 では、この群像はルネサンス期の画家や彫刻家たちにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。実のところ、そのあまりに情動的な表現は直ちには受け入れられなかったように思われます。というのも、人物像の内面性を表すことがきわめて重要だと考えていたレオナルド・ダ・ヴィンチですら、以下のように手稿に記しているからです。

「もし畏敬の念を表すべき人物を描かねばならぬとしたら、それは図々しさや無遠慮をおびて表されるべきではない。絶望しているように、または命令しているような効果が出てはならない。 ―中略― わたしはちょうど近頃ある天使を見たが、その天使たるや受胎告知にあたって、極悪無道の敵に対してあらんかぎりの憤激を示す運動によって、聖母をその部屋から追い出そうとするかのごとくであり、また聖母は絶望のあまり、窓から身を投げようとしているように見えた。だからこのような失策に陥らぬように注意するといい。」(訳:杉浦明平 一部改)。

 レオナルドは、イエスや聖人を表す際に過度な感情や運動性を与えると、作品そのものが下品になってしまうと警告しているのです。実際、《ラオコオン》が発掘された1506年以前では、レオナルドの《最後の晩餐》[第3回 図1]に代表されるように、全体的に調和のとれた表現が美しいとみなされていました。そのような美的感覚が普及していたからこそ、ミケランジェロは《バッコス》[第4回 図1]や《ダヴィデ》[第4回 図5]を制作する際に、古代クラシック期の彫像を手本としたのでしょう。

 誰よりも早く《ラオコオン》を実見し、その特徴を知り尽くしていたミケランジェロですが、この群像からの影響が認められる彫刻作品は発掘から7年後にようやく登場します。それはユリウス2世の墓碑のために制作した2体の奴隷像[図6, 7]です。

[図6](左)ミケランジェロ 《瀕死の奴隷》 1513年頃 像高:229cm  パリ ルーヴル美術館
[図7](右)ミケランジェロ 《反抗する奴隷》 1513年頃 像高:229cm  パリ ルーヴル美術館

ヴァザーリ(1550年)によると、これらの彫像はローマ教会に従属した諸都市を表しているということですが、パノフスキー(1939年)はこれらの像がプラトン学者マルシリオ・フィチーノ(1433-99年)の理念を具現化したものではないかと推察しています。フィチーノによると、人は生きている間、永遠なる魂が肉体という牢獄に閉じ込められてひどく不安な状態に陥っているというのです。ミケランジェロはこれらの奴隷像を3層構造の墓碑の最下層に設置しようとしていたので、それらは教皇の存命中における魂のさまざまな苦悩を表しているのかもしれません。

 2体の奴隷像は明らかに《ダヴィデ》とは異なり、ヘレニズム的な要素を備えています。《瀕死の奴隷》[図6]の片腕を大きく振り上げて頭を傾げるさまは、すぐさま《ラオコオン》を想起させますし、《反抗する奴隷》[図 7]の腰と首を大きくひねるポーズはヘレニズム期の彫像にしばしば見られる特徴です。ユリウス2世の墓碑の制作はその後も1545年まで続くのですが、そのために制作された複数の未完の奴隷像はいずれもヘレニズム的な要素を備えています。こうしたダイナミックで情動的な表現は、その後、ジャンボローニャ(1529-1608年)やベルニーニ(1598-1680年)へと引き継がれていくことになるのです。

 1506年の《ラオコオン》の発掘はルネサンス美術を大きく変換させ、バロック美術への扉を開くことになるわけですが、その際にミケランジェロが果たした役割はきわめて重要だったと言えるでしょう。