第16~19回まで4回に渡って、オシオス・ルカス修道院の中央聖堂を中心に、中世の東ローマ帝国における聖堂建築やその内部装飾を見てきました。この中期ビザンティン美術は西欧にも大きな影響を与え、特にヴェネツィアやシチリアの建築や絵画には、その痕跡がはっきりと認められます。今回はその代表例であるヴェネツィアのサン・マルコ聖堂[図1]を取り上げようと思います。

ところでヨーロッパの近代以前の美術作品を楽しむためには、直感やセンスだけではなく知識も必要ではないかということで本コラムの連載を始めたのですが、そうはいっても作品の放つオーラや魅力は実物を前にしてこそ感じ取れるものです。ですからこのコラムの読者の方にも、いずれ近い将来、是非、ここで扱っている聖堂や作品を見に行っていただきたいと思っております。
そういう点で言えば、ヴェネツィアはギリシアの山間にあるオシオス・ルカス修道院と比べるとはるかに行きやすいため、すでに何度かサン・マルコ聖堂を訪れた方もいらっしゃることでしょう。そして堂内に一歩足を踏み入れた瞬間、黄金に輝く壮大なモザイクに圧倒されたに違いありません[図2]。

でも広大な堂内のどこをどのように観ていけばよいのか当惑されませんでしたか? そのような方にとって、あるいはこれからヴェネツィアを訪れようと思われている方にとっても、本コラムが良きガイドとなることを期待しています。まずは都市国家ヴェネツィアの成立過程から見ていくことにしましょう。
ヴェネツィア共和国の建国と繁栄
4世紀後半、フン族による北東ヨーロッパへの侵攻によって、ゲルマン人がローマ帝国内に移ってきます[図3]。彼らに押し出されるようなかっこうで、北イタリアに居住していた人々が5世紀半ばにトルチェッロ島に移住し、その後、この島を中心に700年頃、ヴェネツィア共和国が建国されました。

726年にはオルソ・イパートが最初のヴェネツィア共和国総督として選任され、それが東ローマ帝国イサウリア朝の初代皇帝レオン3世から承認を得ます。つまりヴェネツィアは建国間もない頃から東ローマ帝国と密接なつながりをもっていたのです。
さらに803年にフランク王カール大帝と東ローマ帝国皇帝ニケフォロス1世は、ヴェネツィアが東ローマ帝国に属しているものの実質上、独立していることを確認しました。こうして自治を盤石にしたヴェネツィアは、その中心をトルチェッロ島からヴェネツィア本島へと移します[図4]。

海に面していて東西ヨーロッパの中ほどに位置する地の利を生かして、ヴェネツィアは810年にフランク王国との交易権を取得し、991年には東ローマ帝国内での免税特権を得ます。さらに10世紀後半にはイスラム諸国とも交易を開始し、ダルマチアを征圧した11世紀初頭にはアドリア海を手中に収め、以降、東西のヨーロッパ、およびイスラム教諸国との貿易により、莫大な富を築いていくことになるのです。
旧サン・マルコ聖堂の建立
787年に開催された第2ニカイア公会議では、主に東ローマ帝国で730年以降行われていた聖像破壊運動が否定されましたが、もうひとつ重要な決定がなされました。それは、すべての教会は主祭壇の下に聖遺物を収めていなければならないというものです。聖遺物は天の聖人と地上のキリスト教徒を仲介する重要な媒体と見なされたからです。
この決定がきっかけとなり、9世紀にはヨーロッパの各地で聖遺物が新たに発見され、それが売買、ないしは略奪されて移動することになりました。よく知られている例をひとつ挙げると、後に西方教会で定める3大聖地のひとつとなるサンティアーゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)の大聖堂には、イエスの弟子のひとりであるヤコブの遺体が埋葬されていますが、それは伝承によると9世紀に地元の羊飼いによって偶然、発見されたとのことです。
イエスの生涯を記した福音書記者のひとりであるマルコは、1世紀半ば過ぎにエジプトのアレクサンドリアで教えを広めていました。そのためこの地で殉教し、埋葬されたのですが、その場所はごく一部のキリスト教者にのみ知らされており、それは時代の経過とともにわからなくなってしまいました。ところが9世紀に入ると、突然、マルコの遺体とされるものがアレクサンドリアで発見され、それをヴェネツィアの商人が828年に自分たちの都市へと運びこんだのです[図5]。

このきわめて重要な聖人の遺体を聖遺物として832年に建立されたのが旧サン・マルコ聖堂です。
新サン・マルコ聖堂の建立にいたるまでの経緯
オシオス・ルカス修道院では、克肖者ルカスの不朽体から奇跡の香油が出るとされ、11世紀に多くの巡礼者がこの地を訪れ、彼らの寄進によって中央聖堂が新たに建てられました(第16回コラム参照)。この修道院に限らず、ヨーロッパでは紀元1000年前後から多くの巡礼者が重要な聖遺物がある地に出かけて行きました。フランスではサンティアーゴ・デ・コンポステーラに向かうために4つの巡礼路が整えられ、そのルート上にある町の聖堂には多くの巡礼者が訪れたのです[図6]。

昇天したイエスはこの世界が終わる時、地上に再臨して「最後の審判」を執り行うとされます。その時にイエスによって選ばれ、理想のキリスト教王国(天国)に入れるように、日々、自身の罪を悔い、それを贖っていくことが、信者にとっては信仰生活の基本となっています。「最後の審判」はいつ行われるのかは神のみぞ知るところですが、イエスの時代からちょうど1000年を経た頃の人々は近々、その日が来るのではないかと期待と不安の入り混じった気持ちで過ごしていたのです。そうしたなかで聖地巡礼を行えば、これまで犯してきた罪が贖われるのではないかという考えが広まり、大勢の人が西方教会の定める三大聖地(エルサレム、ローマ、サンティアーゴ・デ・コンポステーラ)に向けて旅立つことになったのです。
巡礼はその聖地に到達することだけが目的ではなく、そこに至るまでの道程で神と対話することが重視されていました。ヴェネツィアは三大聖地のいずれに向かうにも便利な交通の要衝地であり、重要な聖遺物を拝むこともできるため、多くの巡礼者がサン・マルコ聖堂を訪れたと思われます。そして彼らの寄進によって集まった金は、オシオス・ルカス修道院とは比べものにならないほど巨額であったに違いありません。その点では9世紀にマルコの遺体をヴェネツィアの町にもたらした商人は、後のヴェネツィア経済の発展に大いに貢献したと言えるでしょう。
こうした寄進を基に、ヴェネツィア総督ドメニコ・コンタリーニは11世紀半ばに旧サン・マルコ聖堂とサン・テオドロス礼拝堂の取り壊しと、その場所に新聖堂を建造することを命じました。こうしてサン・マルコ聖堂は1063年頃から建てられ始め、1094年に献堂式が挙げられたのです。
聖堂建築と内部装飾
新聖堂は東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスの使徒聖堂を手本に建てられたと言われています。6世紀に建立された使徒聖堂は1453年のオスマン・トルコ帝国によるコンスタンティノポリス陥落後の1460年代に取り壊されてしまいました。そのため、12世紀中頃に制作された彩色写本(パリ国立図書館蔵)の挿絵[図7]が貴重な手掛かりとなります。そこに描かれている建築を現在のサン・マルコ聖堂[図1]や、13世紀のモザイク[図8]と比べると、どちらも壮麗なファサードと円蓋を備えている点で共通します。

[図8]《聖マルコの遺体の運搬》 13世紀 サン・マルコ聖堂(右)
また身廊と翼廊をほぼ同じ長さにし、その上に5つの円蓋を架ける構造も使徒聖堂に由来しているように思われます[図9, 10]。

[図10]サン・マルコ聖堂 プラン(右)
同じ中世でも西欧では、翼廊に対して身廊が圧倒的に長いラテン十字型プランや単純な長方形プランが一般的です(第16回コラム参照)。聖堂のプランが異なれば、その内部の空間デザインもおのずと変わってきます。例えばサン・マルコ聖堂の建立と同時期(1072-87年)に、聖堂の大規模な改築と内部装飾が行われたサンタンジェロ・イン・フォルミス(ナポリから北に約45km)のサン・ミケーレ聖堂を見てみましょう[図11]。

ここでは、身廊部には新約聖書のエピソードが右側壁では祭壇側から入口側へ、左側壁では入口側から祭壇側へ向けて3層で展開しています。そしてアプス(後陣)には《天上のキリスト》、ファサードの裏壁面には、《最後の審判》[図12]が大きく表されているのです。

つまり堂内に立てば、イエス・キリストの生涯(側壁)、そして昇天後の現在の姿(アプス)、さらに再臨する未来の状況(ファサード裏壁面)を見渡すことができるのです[図13]。

西欧でよく見られるこのようなプログラムは、前回まで見ていたオシオス・ルカス修道院をはじめとする東ローマ帝国の聖堂装飾とは大きく異なります。それでは、地域的には西側に属しながら、文化的には東側と密接な関係をもっていたヴェネツィア共和国を代表するサン・マルコ聖堂では、いったいどのようなプログラムが採用されたのでしょうか。
次回は、聖堂のどこに何の場面が表されているのかを確認しながら、全体の装飾プログラムについて見ていこうと思います。