中世美術の確立
キリスト教がローマ帝国で国教化された392年以降、5~6世紀にかけてヨーロッパ各地で聖堂が次々と建立されていきます。それらのなかで特に重要だと考えられているラヴェンナの聖堂を、内部の装飾を中心に6回に渡って見てきました(第10~15回)。古代美術から中世美術への移行がなされたこの時期において、547年に献堂式が挙げられたサン・ヴィターレ聖堂の装飾には、それ以前にはない中世ならではの表現が認められます。その主な特徴をアプス(後陣)のモザイク[図1]を例にまとめると次のようになります。
人物像は正面性が強く、身体の動きは硬直し、感情は抑制されています。また体を包み込む衣は線的な襞と細密な装飾によって構成され、像の立体感を感じ取ることはできません。こうした特徴は、イエス・キリストを始めとする聖人像に神性を与えようとしているからだと考えられます。キリスト教の神は人間をはるかに超越した不可視な存在で、現実世界の延長線上にある古代の神々とは明らかに異なるのです。その唯一絶対なる神に近い聖人たちを表す際に、できるだけ人間らしさを消そうとしたのでしょう。
人物像に神性を与える工夫は、周囲に広がる空間の表現にも見て取れます。大地や植物、雲は表されているものの、背景の大部分は金で埋め尽くされており、全体的に非現実的で神秘的な空間となっています。
キリスト教の主題を中心に展開していく中世美術のもうひとつの特徴として、図像の統一性ということが挙げられるでしょう。一部の聖職者や知識人しか聖書を手にすることができなかった当時の環境において、そこに記されている内容を一般大衆に伝えていくためには、聖堂内の壁画やモザイクが不可欠でした。その際に地域や時代、あるいは制作者によって図像が異なると、信徒たちは混乱してしまいます。そこで6世紀半ば過ぎにさまざまな聖人像や主題に関するプロトタイプ(原型)が定められました。
イエス像を例に挙げると、ガッラ・プラチーディア廟堂(5世紀前半)やサン・ヴィターレ聖堂(547年頃)では、いまだ無髭(むぜん)の青年として表されているのですが、560年頃に既存の装飾を手直ししたサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂では、長髪で有髭の姿で表されています[図2]。
こうしたキリスト像は、同聖堂で向かいの壁に配されている聖母子像とともに、その後、長年に渡って繰り返されていくことになるのです[第2回コラム 図1~3]。
6世紀半ばに確立されたプロトタイプを基本的に踏襲する手法は、個々の聖人像に限られません。聖書に記されたエピソードにおいても同様であることは、『ロッサーノ福音書』の挿絵のひとつである《最後の晩餐》[図3]の図像が、400年程後のサンタンジェロ・イン・フォルミス聖堂の壁画[図4]でも、あまり変更されずに用いられていることからもわかります。
重要な作品を委嘱された画家が既存のプロトタイプをコピーすることは現代では考え難いことですが、中世の間はむしろこのような手法が一般的だったのです。宗教美術において画家のオリジナリティーが認められるようになるのは、13世紀後半以降と言っていいでしょう(参照:第2回コラム)。
聖像破壊運動
サン・ヴィターレ聖堂のキリスト像で見られるような聖人の神性を強調する表現は、451年のカルケドン公会議において、イエスの両性をキリスト教会の公式見解として発表したことがきっかけになっています。つまりイエスは人間の肉体を持ちながら、同時に神でもあるので、あえて人間らしさを消すようにしたわけです。
しかしながら、この時に教会は大きな問題を抱えることになります。というのもキリスト教ではユダヤ教同様、神の像を造ってそれを聖堂に置き、礼拝の対象にしてはいけないと定めているからです(偶像崇拝の禁止)。イエスが神であるならば、それを可視的な存在として聖堂に表すことはできません。ですが、そうなると福音書に記されている内容はほとんど表現できなくなってしまいます。
前述したように、当時、聖堂装飾は一般大衆への布教に必要不可欠なものでした。キリスト教の重要概念や聖書のエピソードを視覚化して、ギリシア語やラテン語を理解できない人々に正確に伝達する必要があったからです。そのため教会は、丸彫りの彫像の制作は禁ずるけれども、平面芸術であればイエスを表すことを認めていきます。
こうして聖堂装飾はヨーロッパにおけるキリスト教の普及に大きく貢献したわけですが、8世紀に入ると聖像を問題視する動きが出てきます。東ローマ帝国皇帝レオン3世(在位:717-741年)は726年から聖像廃止へ向けて動き出し、730年には聖像への崇敬を禁ずる勅令を発します。そこから既存の聖堂装飾を破壊していく聖像破壊運動(イコノクラスム)へと発展し、首都コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂からは一切の宗教画が排除され、他にも帝国内[図5]の4~7世紀の貴重な壁画やモザイク、板絵(イコン)は次々と取り除かれていったのです。
これに対しローマ教皇グレゴリウス2世(在位:715-731年)は、布教における聖像の有効性を十分に認識していたため、この勅令を拒否します。また東ローマ帝国内でも、聖像破壊運動に反対する人々も多く、レオン3世の孫にあたるレオン4世の皇妃エイレーネーは、聖像崇敬禁止令を撤廃するために787年に第2ニカイア公会議を開催します。その際、イエスは人間の肉体を持ち歴史的に存在していたので、その姿を描くことは不可視である神を表すこととは異なり、偶像を制作することにはあたらないとしたのです。さらに聖像はそれ自体を神として拝むのではなく、神に迫るための媒体にすぎないとし、聖像崇敬を正当化しました。
この公会議後も聖像に関する論争は続き、皇帝テオフィロス(在位:829-842年)は聖像破壊運動を再開するのですが、彼の没後、皇后テオドラが843年に開いた会議において聖像の正当性が再度、承認され、これによって聖像破壊運動は完全に終結しました。そして皇帝バシレイオス1世(在位:867-886年)の時代になると大規模な聖堂装飾が復活し、ハギア・ソフィア大聖堂でもアプスがモザイク[図6]で装飾されることになったのです。
そこに表された《玉座の聖母子》は聖堂建立時(537年と562年に献堂式)の装飾を再現したものではないかと考えられていますが、560年頃にアプスの装飾が施されたポレッチのエウフラシウス聖堂[図7]でも、「玉座の聖母子」が中心に据えられています。
こうしたことから、聖堂アプスの半円蓋空間(コンチ)に正面性の強い聖母子像を表すことは6世紀半ばに確立され、その伝統は聖像破壊運動以降も継承されたことがわかるのです。
オシオス・ルカス修道院にあるふたつの聖堂
聖像破壊運動後ということもあり、バシレイオス1世に始まるマケドニア朝(867-1057年)時代、東ローマ帝国各地で聖堂が新たに建造されていくのですが、それらを総じて中期ビザンティン聖堂と呼んでいます。その特徴を把握するのに最も適しているのが、アテネから100キロほど北西にあるオシオス・ルカス修道院のふたつの聖堂です。それらはまるでひとつの聖堂のように連結されているのですが、そのことは聖堂のアプス側から見るとよくわかります[図8]。
右側がハギア・バルバラ聖堂(後のテオ・トコス聖堂)、そして左側が中央聖堂(カトリコン)です。
オシオス(ギリシア語:Όσιος)とは「克肖者」と訳され、聖人に付される称号です。克肖者ルカスは10世紀前半にヘリコン山麓に修道院を創設し953年に亡くなるのですが、その墓[図9緑色部分]に隣接した所にハギア・バルバラ聖堂が961-966年に建てられました[図9オレンジ色の枠線内] 。
それは9世紀から東ローマ帝国内で普及していた内接十字型プランに基づいています。プランとは建物を上から見た時の形のことで、本聖堂の本堂のように、正方形内に十字型がきれいに収まっているような形式のものを内接十字型と言っています[図9赤い枠組部分]。このように身廊と翼廊の長さがあまり変わらない十字型の聖堂は、東ローマ帝国内でよく見られることから、「ギリシア十字型プラン」と呼ばれてんでいます。それに対して西欧では、身廊が翼廊に比べてはるかに長い「ラテン十字型プラン」が広く採用されています[図10]。
11世紀に入ると、ルカスの遺体から香油が出るという噂が広まり、多くの巡礼者がこの修道院を訪れました。そして彼らの寄付金を基に、既存のハギア・バルバラ聖堂に接続させて新たに建てられたのが中央聖堂[図11オレンジ色の枠線内]です。
この新堂はスキンチ式と呼ばれる新しいタイプになっています。スキンチとは正方形の土台の上に円蓋を置く際に生じる隙間部分を指し、聖堂の中心に大きな円蓋(本聖堂では直径9m)が載せられているのが特徴です。オシオス・ルカス修道院とともに1990年に世界遺産として登録されたダフニ修道院やネア・モニ修道院の中央聖堂(前者:1075-1100年頃、後者:1043-55/56年に建立)も同じタイプに属しています。
次回はオシオス・ルカス修道院中央聖堂の内部に残る11世紀のモザイクを見ていくことにしましょう。