11世紀の東ローマ帝国における建築を代表するオシオス・ルカス修道院の中央聖堂は、内部の空間が3つのランクに分けられ、そのうちの第1ランクと第2ランクにあたる場所の装飾をこれまで見てきました(第17&18回)。そしてそこには、「三位一体」と「イエス=メシア」というキリスト教会にとって最も重要な概念と結びつく主題が表されていることを確認しました。残りの第3ランクは本堂下層部とナルテクス(玄関間)になりますが[図1 緑色の部分]、ここではナルテクスに表されている「キリスト受難伝」連作を中心に見ていくことにしましょう。

ナルテクスの全体像
初期キリスト教時代、洗礼を授かっていない人は本堂に入ることができず、その手前のナルテクスで聖職者からキリスト教の基本的な考え方を教授されていました(第10回コラム参照)。しかしながら11世紀のオシオス・ルカス修道院を訪れる巡礼者の多くはすでに受洗者であったでしょうから、ナルテクスは本堂に入る前にイエスという存在をあらためて確認する場として活用されていたように思われます。そうであるとすれば、この空間はどのような意図の基にデザインされているのでしょうか。
聖堂訪問者の目に最初に飛び込んでくるのは、本堂への入口の上部に表されている《パントクラトールのキリスト》[図2-★]でしょう。次にその左右に配された《キリストの磔刑》[図2-b]と《リンボに降るキリスト》[図2-c]が視界に入ってくるはずです。そして最後に左右の奥の半円形に窪んだ空間に視線を向けると、そこには《弟子たちの洗足》[図2-a]と《トマスの懐疑》[図2-d]が表されていることに気づくのです。

こうした訪問者の視点に基づき、上記の順でナルテクス内の主要モザイクを追いかけていくことにしましょう。
本堂入口上部の壁面
克肖者ルカスの聖遺物を拝もうとする巡礼者は本堂に入る前に、必ず入口上部に広がる半円形壁面[図3]に目を向けるはずです。

そこに表された半身像の左右には “IC”および “XC” と記されていますが、これはギリシア語のΙησους(「イエズス」)とΧριστος(「クリストス」)それぞれの最初と最後の文字であり、イエスこそが救世主(キリスト)であることを示しています。彼は見る者を威圧するような厳格な表情をしており、右手で祝福のポーズを取り、左手には聖書を抱えています。この図像はまさに「パントクラトールのキリスト」、すなわち万物の創造主である神と一体化した救世主イエスを表しているのです。
本堂の主円蓋は1593年の地震によって崩落し、そこには後世に描かれた壁画[図4]のみが残っています。

そこには「パントクラトールのキリスト」と救世主の到来を予言していた預言者たちが描かれていますが、中央聖堂が建立された当初も同様の図像がモザイクで表されていたはずです(第17回コラム参照)。
すなわち巡礼者たちはまずはナルテクスで、イエスがこの世を救う救世主であると同時に神でもあるということをひとつの概念として理解し、そのうえで本堂に入ると、「最後の審判」に備えて天の中心から人のあらゆる行為を常に監視しているイエスの存在を、よりリアルに体感したのではないでしょうか。
入口左右の壁面
《パントクラトールのキリスト》の左隣の壁面には、イエスの死の場面[図5]が表されています。

十字架上のイエスは頭を傾げ、体全体を湾曲させ、両手、両足、脇腹からは血が噴き出しています。もはや息を引き取ったように見えるその姿は、「死せるキリスト」と呼ばれ、同時代の西欧でしばしば見られた「勝利のキリスト」とは明らかに異なります。例えばナポリの近くに位置するサンタンジェロ・イン・フォルミスのサン・ミケーレ聖堂に描かれている壁画[図6]では、イエスは苦痛の表情はいっさい浮かべず、両眼をしっかりと開け、体を縦木に沿うように背筋をまっすぐ伸ばしています。

悪の力に屈することのないこのようなイエス像に対して、オシオス・ルカス修道院では十字架上における彼の死を強調しているのです。
また本聖堂の磔刑図[図5]では、十字架が埋め込まれた地面にはユーモラスな頭部が見られますが、これは頭蓋骨(ヘブライ語:ゴルゴタ)で、処刑場であるエルサレムの「ゴルゴタの丘」を表しています。それと同時に、神との契約を最初に破ったアダムの頭蓋骨とされ、人々が犯し続けてきた罪の象徴でもあるのです。イエスの十字架上での死は、神に対する膨れ上がった罪を贖うことを意味していました。
一方、入口の右隣の壁面には《リンボに降るキリスト》[図7]が表されています。リンボとは「縁」という意味のラテン語 “limbus” に由来し、地獄の一歩手前の世界を指しています。そこには、イエスが登場する以前に亡くなってしまったため、洗礼を受けることができなかった義人たちがとどまっていたのです。

この主題は聖書には記されていませんが、初期キリスト教時代の神学者アウグスティヌス(354-430年)によると、イエスは亡くなった直後にリンボに降っていったということです。そしてその扉のかんぬきを壊すと、中から多くの人が現れてイエスの足元にひざまずき、上の世界に連れて行ってほしいと懇願してきました。イエスがしっかりと手を取っているのはアダム、その後方にはエヴァが控えています。
イエスは磔刑の場面とはうってかわって、躍動感溢れる姿で表されています。その足元には粉々に砕けた門があり、右手には自身が架けられた十字架を持っています。そして彼の頭上には、「復活」を意味するギリシア語 “ANΆCTACIC” と記されているのです。このことから装飾プログラムの考案者は、キリストの「死」と「復活」を「パントクラトール」の左右に対比的に配して、イエスの神性を巡礼者たちに再認識させようとしたのではないかと推察できるのです。
両端の半円蓋空間
「キリスト受難伝」の連作で、最初の場面としてしばしば表されるのは「エルサレム入城」や「最後の晩餐」です。しかしながら本ナルテクスでは、左奥の半円形に窪んだ空間[図2-a]に置かれた《弟子たちの洗足》[図8]から始まっています。

エルサレムの一軒の家でユダヤ教の「過越祭」を祝うために夕食を取っている最中、イエスは席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めます。そしてこの作業を完了した後、彼はこう言います。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕(しもべ)は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(『ヨハネによる福音書』 13:14-17)。
このエピソードは、師が弟子よりも優っているわけではないし、主人が下僕より偉いわけでもない、という謙譲の美徳を伝えていることは言うまでもありません。その一方で、弟子たちの汚れた足を罪のたとえと捉えるならば、その足を洗い清めるイエスは人の罪を神に贖うことを意味し、十字架上での彼の死を予示していると言えるのです。つまりこの場面は隣接する《キリストの磔刑》[図5]と共に、イエスの「死」の意味を巡礼者に教示する主題なのです。
一方、本連作の最後を飾っているのは、右奥の壁面[図2-d]に表された《トマスの懐疑》[図9]です。この主題は『ヨハネによる福音書』(20:19-29)に記されています。

磔刑の3日後の夕方、イエスは弟子たちのもとに現れて十字架上で受けた傷を見せ、かねてから彼らに伝えていた通り、自分が復活したことを示しました。ところが、その場に居合わせていなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのです。するとその8日後、再びイエスが弟子たちの家に現れるのですが、その時はトマスも在宅していました。するとイエスは彼に、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と告げました。それに対してトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と応えたのです。
このエピソードはイエスの復活を信じることの重要性を説いているだけではなく、イエスが神であることを明確に示しているのです。言いかえるならば、イエスは神であるからこそ、復活することができたということなのです。
ナルテクスの装飾プログラム
この「キリスト受難伝」連作は、左側壁の《弟子たちの洗足》から始まり、《キリストの磔刑》、《リンボに降るキリスト》、《トマスの懐疑》と左から右に向けてスムーズに展開しています[図2]。ですが本空間をデザインした者は、それらの内容をわかりやすく示すことを重視していたわけではないように思われます。それよりもイエスが神であり、だからこそ復活することができたこと、さらにはイエスの死の意義や信じることの大切さを、聖堂を訪れる者に再認識させるために、主題の選択と配置を考えたのでしょう。ナルテクスでは、中央の「パントクラトールのキリスト」を中心に、左側は「キリストの死」を、そして右側は「キリストの復活」という具合に、空間とテーマが明確に関連付けられているのです。
オシオス・ルカス修道院の中央聖堂は、香油が出るという克肖者ルカスの遺体を実見するために、紀元1000年前後にこの地を訪れた大勢の巡礼者たちの寄進を基に、ハギア・バルバラ聖堂に隣接して建てられました(第16回コラム参照)。新聖堂を訪れる巡礼者たちもまた、再臨したイエスによっていずれ行われるであろう「最後の審判」において、天国に入ることを強く望んでいたに違いありません。そのような巡礼者たちに対して、修道院側はイエスこそが世界の救世主であり、同時に神であることを、ナルテクスから本堂へと展開していく装飾で体感させようとしたのです。