はじめに
「西洋美術史」の概説書というと、決まって古い時代から年代順に作品を追いかけていきます。皆さんの中にも、その順序通りに読み始めて、最初の古代の章で早々に断念してしまったという経験をお持ちの方はいらっしゃいませんか。概説書を途中で放り出してしまうひとつの理由として、美術史全体のおおまかな展開を把握しないまま、ただなんとなく解説を読んでいるということが考えられます。対象としている時代の美術が、西洋美術史全体の中でどのような位置づけにあり、どうして重要なのかをある程度、踏まえた上で見ていくと、関心の持ち方もだいぶ変わってくるのではないでしょうか。
とは言っても、膨大な美術史の情報をコンパクトに要約して、大きな流れを把握することは並大抵のことではありません。というのも西洋美術史は単に技術や技法の発展ということで単純に捉えることができないからです。当然のことながら、美術は人々が生きた時代や地域における思想や信仰、経済といった様々な要素と密接に結びついて展開してきたのです。そのような複雑さを十分に承知の上で、あえて各時代の美術の動向を簡略化して、まずは西洋美術史の全体像を概観することからこの連載を始めようと思います。
古代における写実主義
古代ギリシアの哲学者アリストテレス(BC.384-322年)は『詩学』において、詩や絵画の創作は何らかの物や人を「模倣(ミメーシス)」することを基本としているとして、次のように述べています。
模倣することが人間には幼少期から自然本性的に備わっているため、他の動物とは違って、最も模倣を得意とし、最初期の学習も模倣を通じて行う。それがゆえに、人間なら誰もが模倣像を喜ぶということも、自然本性的に備わっているわけである。その証拠は、現実に経験される出来事のうちにある。例えば私たちは、下等動物の姿や死体など、実物を目にするのが苦痛な対象であっても、それらを極めて精緻に描いた像を観賞するときには喜びを感じるのである(三浦洋訳)。
神が創造した世界や大自然を人の手で「模倣」したいと願うことや、「極めて精緻に描いた像」を見て感動することは、どちらも人間の本能に由来するということです。実際にアリストテレスの時代に、彫像では写実表現はすでに完成の域に達していました。プラクシテレスが制作したと言われている《ヘルメス》(BC.330年頃)[図1]は、男性の理想的な肉体がまるで実物のように再現されています。同時代の絵画で現存しているものはほとんどありませんが、プリニウスの『博物誌』(77-79年頃)には、画家アペレス(BC.330年頃に活動)がモデルの特徴を実に正確に捉えた絵を描いたことが記されています。
またローマ時代のコピーではありますが、ポンペイの「ファウヌスの館」の中庭に設置されていた《イッソスの戦い》[図2]は、この戦争が実際に起きた紀元前333年からそう遠くない時期に、この床モザイクの原作が描かれていたと考えられています。
「西洋美術史」において、まず押さえておかなければいけない重要なポイントは、写実的な表現はすでに紀元前4世紀の時点でかなりのレヴェルに達していたということです。稚拙な絵を描いていた幼稚園生が小学校、中学校、高校と進学していくにつれて、実物とそっくりに描けるようになっていくのと同じように、「西洋美術史」でも時代が下れば下るほど写実的な表現になっていくと考えがちですが、決してそんなことはないのです。
古代から中世における美術表現の変化
アリストテレスの時代に確立された写実表現は、その後、紀元前2世紀にローマがギリシアに代わってヨーロッパを征圧するようになっても、基本的には継承されていきます。そのため美術史の領域においては、5世紀までは「古代美術」と呼んでいます。それが「中世美術」に変わるのは、キリスト教信仰の拡大が要因となっています。具体的に何がどのように変化したのかを、5~6世紀にかけてヨーロッパの中心都市のひとつであった北イタリアのラヴェンナに現存する2つのキリスト像で確認していきましょう。
まずガッラ・プラチーディア廟堂のキリスト像(423-450年頃)[図3]ですが、体をややひねりながらしっかりと岩に腰かけています。脚を交差させ両腕を上下に配すポーズは、人間らしい動きを感じさせます。周囲の羊の配置や大きさも自然であり、大地も手前から後方に向けて奥行きを感じさせ、上方には青い空が広がっています。
一方、その100年ほど後に制作されたサン・ヴィターレ聖堂のキリスト像(547年頃)[図4]は、青い天球とともに宙に浮遊しているようです。そのポーズはほぼ左右対称で正面性の強いものとなっており、大きく見開いた目によって鑑賞者を威圧しているようです。周囲の聖人や天使はほぼ同じ大きさで横一列に並んでおり、空間の奥行はあまり感じられません。さらに背景はほとんどが金で埋め尽くされているため、そこに現実の世界が表されているようにはまったく見えないのです。
紀元前4世紀末の原作をローマ時代にコピーしたモザイク、《獅子に跨る少年バッコス》[図5]を見ると、ガッラ・プラチーディア廟堂の《善き羊飼いとしてのキリスト》[図3]よりもはるかに写実的であることがわかります。ここに表されたバッコスのような古代の神々は、自然や人間の延長線上に置かれていました。例えばゼウス(ユピテル)は「天空」「父性」、アフロディーテ(ウェヌス)は「愛」「美」、ディオニュソス(バッコス)は「豊饒」「神秘性」の象徴だったのです。そのため古代の芸術家は神々を美しい肉体を持つ人間として、そしてその周囲の空間を現実世界のように表現していたのです。
ところが392年にローマ帝国で国教とされたキリスト教では、神は人間をはるかに超越した不可視な存在であるとみなしました。1世紀初頭に神の言葉を説いたイエスが神なのか、それとも人なのか、といった議論は4~5世紀に盛んにおこなわれたのですが、451年のカルケドン公会議において、イエスは神でもあり人でもあるというその両性が教会の正式な考えとして発表されたのです。
カルケドン公会議以前に制作されたガッラ・プラチーディア廟堂のモザイク[図3]は、いまだイエスを人と捉えているので、写実的に表わされていると思われます。その一方で、公会議後に作られたサン・ヴィターレ聖堂のモザイク[図4]では、イエスは人の肉体を持ちながらも、神であるということから、その威厳を強調した表現になっているのです。
紀元前4世紀に確立された古代の写実表現から、像の神性を強調する非写実的な表現への移行が6世紀になされたこともまた、「西洋美術史」の全体像を把握するうえでとても重要なポイントです。まさにラヴェンナの2つのキリスト像は、古代と中世の美術様式の境目になっているのです。とはいえ、これらの像はいずれも私たちが慣れ親しんでいる長髪で有髭のキリスト像ではありません。そのような典型的な図像は6世紀後半に確立されたと思われます。
中世美術の特徴
5世紀末に建てられたラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂には、身廊(聖堂入口から祭壇へと続くスペース)の上層部にモザイクが施されているのですが、右側壁のもっとも祭壇側に《玉座のキリスト》[図6]が表されています。このモザイクはサン・ヴィターレ聖堂の《楽園のキリスト》[図4]よりもやや後の560年頃に制作されたものですが、そのキリストの姿は現代にまで継承されているなじみのあるものです。彼のこうした容貌は古代ローマで信仰されていた天空の神ユピテル[図7]をモデルにして創出されたと考えられています。私たちがよく知っているイエスの顔は、実はキリスト教からすれば異教の神から借用して創出されたものなのです。
おそらくこの頃にキリストのみならず、様々な聖人像や聖書の物語場面のプロトタイプ(基本の型)が定められたのでしょう。以降、なるべく忠実にそれが継承されていきます。古代では美術の主題は基本的に自由であったのですが、中世美術の主要作品ではほとんどがキリスト教関連の主題を扱うようになるのです。というのも、書物や紙が貴重なもので識字率がとても低かった当時、美術はキリスト教を広めていくための極めて重要なメディアであったからです。そして教会の装飾を介して聖書の内容や教義を伝えていこうとした時、時代や地域、あるいは聖堂によってイエスや聖人の姿が異なると、信徒たちに混乱を引き起こしてしまうことになったでしょう。
こうした事情から、各聖人や聖書の諸々のエピソードをどのように表現するかといった図像のプロトタイプが6世紀半ばに定められ、それが中世を通して継承されていくことになるのです。そのためこの時代において、作り手のオリジナリティは基本的に求められることはなく、非常に重要な教会の壁画やモザイクであってもその作者名が記録されることはほとんどなかったのです。
現代のように画家や彫刻家のオリジナリティが重視されるようになるのは「ルネサンス」以降なのですが、それについては次回、お話していくことにしましょう。