この連載の記事
1. 最初の一歩
二〇〇三年にだした『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)という私の最初の本は、タイトルと内容がちゃんと対応していませんでした。第〇講(導入部のようなところ)は、たしかに、私が哲学にひきずりこまれた様子を少し書いてはいましたが、それ以降はすべて、ウィトゲンシュタインについての学術論文でした。とても専門的
2. 「理性」という語
さて、カントのお話でした。『純粋理性批判』によくでてくる「理性」という語が、どうしてもごくりと飲みこめない(「腑に落ちない」とでもいえるかもしれません)という話でした。「理性」が、自分の言葉にならないのです。どうも、わたしは、他の人と比べて、言葉や概念に対して「人見知り」のところがあります。誰でも、すぐ使える言葉が使
3. 哲学とは何か?
「哲学」についての随筆を書いているわけですから、このあたりで、そもそも「哲学とは何か?」ということについて、一言二言私なりに説明した方がいいのかも知れません。ただ、「哲学」という語にこだわる必要は、まったくないと思っています。というのも、当りまえのことですが、言葉は言葉にすぎないからです。いったいどういうことでしょう
4. 哲学と思想
たしか大学一年の頃でした。その頃は、新宿区の夏目坂を登りきったあたりに住んでいました。土方巽のところで、暗黒舞踏家を目指していた頃です。和菓子屋さんの二階のアパートにあった私の部屋に、他の大学に入った高校時代の友人がやってきて、私に一冊の本をくれました。大学の一般教育の「哲学」という授業の教科書でした。その授業がめっ
5. 世界の「訳のわからなさ」の前で
私の「哲学病」は、いろいろな要因が重なって、だんだんと慢性化したのだと思います。最初のきっかけは、幼稚園に入る前の三度の大病でしょうか。はっきりと覚えているわけではありませんが、入院している頃の病室の光景が、寂しさとともにぼんやりと残っています。死ぬことが、私たちの存在をまるごと覆っていることを、そこで実感したのだと
6. 笑い
「笑い」というのは、不思議な現象です。笑っているときには、本人は他のことは何もできません(笑いながら、昨日の出来事を反省したり、明日の朝食の献立を考える人はいないでしょう)。それに、みんなで笑っているときなどは、本人だけではなく、周りにいる人たちやその場全体を「無化」してしまいます。突然、今までの秩序がすべて消えてし
7. 直観という方法
ベルクソンが、「哲学」をどのようなものだと考えていたかということを、今回は、お話ししたいと思います。まずは、こんな例を考えてみましょう。
8. ハイデガー
天才・土方巽のもとでやっていた暗黒舞踏をやめて、大学の授業にちゃんと出始めたのは、1980年でした。土方の深い影響を直前に、激雨のように受けていましたので、大学の授業は、どれもこれも刺激がなく、この上なく味気ないものに思えました。ただ、他にやることがなかったので(実は、その頃から将棋に夢中になっていたのですが、それ以
9. ハイデガーの「哲学」
ハイデガーが、どのようなことを考えていたのか、私なりの角度から(かなり斜めから)説明してみましょう。まず「存在と無」という概念を手がかりに始めてみます。
10. 存在と無と場所と
われわれは、なぜか、かならず偏ったあり方をしている、と言いました。性別も、前後も、上下も、何もかも、二項対立の一方だけに、私たちは存在しているのです。男性で、前を向いて、直立している私というわけです。両性具有で、全方向を向いて、上下のない私ではないのです。どこからどう見ても、完全ではありせん。不完全で欠如した偏りは、
11. 「もの」と「こと」
何回か前に、将棋の話をしたのは、ハイデガーのいう「存在論的差異」の説明をしようとしたからでした。「存在」(Sein)と「存在者(物)」(Seiendes)との違いです。そこから、「存在」や「無」についてお話しようと思っていたら、例によって迷路に入りこんだというわけです。今回は、その話に一度戻って、そこから再び「存在」
12. 限りなく「絶対無」に近い「存在」
前回の最後のヘーゲルの『論理の学』(『大論理学』と言われているものです)の引用について考えてみましょう。「純粋存在」と「純粋無」は同じなのだ、とヘーゲルは言います。これは、どういう意味でしょうか。
13. ハイデガーと西田(1)――人間は「現存在」である
さて、今回から、マルティン・ハイデガーと西田幾多郎を比較してみましょう。いろいろな角度から勝手なことを、これまで言ってきましたので、そろそろこの二人を対決させて、まとめてみたいと思います。でも、また余計なことを話し始めて横道にそれるかもしれませんが、それは、もう私の本質的な問題点なので、気にしないでください(?)。そ
14. ハイデガーと西田(2)――現存在は「世界」を開く
ハイデガーの「世界内存在」が、実は、岡倉天心経由の、もともとは荘子のアイデアだったという驚くような話が、木田先生の『ハイデガー拾い読み』(新潮文庫)の一九一頁以下にでてきます。今道友信さんの本(『知の光を求めて―一哲学者の歩んだ道』中央公論新社、二〇〇〇年)を引用して紹介されています。この話は、本当に面白い。ちょっと
15. ハイデガーと西田(3)――存在は「場所」に於いてある
さて、そろそろ西田幾多郎の「絶対無の場所」へおもむかなければなりません。まず、私が、なぜ西田を読むようになったのか話してみたいと思います。そもそも大学院に入ってウィトゲンシュタインから研究を始めたわけですから、おとなしくしていれば、西田にはであわないはずだからです。またまた、こうして話がそれていくかもしれませんが、今
16. ハイデガーと西田(4)――「相対無の場所」と、レヴィナスの「私」
いま大学院の演習で読んでいるのは、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen)、ホワイトヘッドの『過程と実在』(Process and Reality)、西田幾多郎の「場所」、そしてレヴィナスの『全体性と無限』(totalité et infini)という三冊と一論
17. ハイデガーと西田(5)――「表裏」という関係
今回は、「絶対無」という概念を説明するために、「表裏」という概念を手がかりにしたいと思います。「表裏」という関係は、とても面白く、ほかのさまざまなわかりやすい二項の関係とは異なっています。たとえば、右と左。この関係は、中心さえ決めれば、同時に同じ平面で存在します。右手と左手を見るときのように、自分の胴体を中心にすれば
18. ハイデガーと西田(6)――「絶対無」はどこにあるか
西田幾多郎の「絶対無」という概念について、正面から考えてみましょう。「絶対」と「無」とにわけて、考えてみたいと思います。まずは、「絶対」から。
19. ハイデガーと西田(7)――ふたつの「絶対無」
われわれは、とても不思議なことに、ルールブックなしで、この世界で生きています。この世界に生れても、この世界のルールについては、ほんの少しも教えられません。何もわからずに八〇年前後、この世界で生き、あっという間に向こうの世界に旅立ちます。とてつもなく面倒なゲームを、毎日苦労しながらしているのに、そのゲームのルールも、そ
20. ハイデガーと西田(8)―「絶対無」の鏡映構造
前回、「絶対無」は、二つあることを説明しました。それは、個物側へと突き抜けていく「絶対無」(超越的主語面)と、すべての世界を包摂する底へ抜けていく「絶対無」(超越的述語面)の二つでした。そして、この二つの「絶対無」は、同一の領域であり、われわれのこの存在の世界と、いわば表裏をなしているということになるといいました。さ
21. ハイデガーと西田(9)――世界は私か、それとも存在しないのか
知っている人は知っていると思いますが、実は私の生業(なりわい)は、大学で哲学を教えるというものです。(ここだけの話ですが)そんなことは、本当は不可能なのです。哲学は、特殊な病気(おそらく不治)なので、病気にかかった人は、自然と慢性状態になります。何も教えなくても、自分で本を読んだり、いろいろ深く考えこんだりして、病膏
22. ハイデガーと西田(10)――よくわからない「モナド」
西田幾多郎とマルクス・ガブリエルが、画家と描かれた絵という比喩で、この世界の重層的な構造を示しているといいました。そして、この構造は、無限小の方向と無限大の方向へとそれぞれ進んでいきます。ある一人の画家が描いている絵が、この世界全体を描いているのだとしたら、その絵のなかに、画家とその絵そのものも描かれていなければなり
23. ハイデガーと西田(11)――「モナド」再考
さて、前回けっきょくよくわからなかった「モナド」にもう一度挑戦してみましょう。今回すこしでも理解できるように、四つのイメージをひねりだしてみたいと思います。かなり無理やりですが、これらのイメージで、何となく「モナド」をイメージして、西田のライプニッツ批判(というよりも、西田によるライプニッツとの違いの自覚)に移りたい
24. ハイデガーと西田(12)――「現実的存在」とは何か
この連載で、「モナド」について書こうと思ったとき、実は、「モナド」に似たもうひとつの概念についても続けて書くつもりでした。ただ、そうなると、「モナド」以上に、さらに横道にそれることになるので、またの機会にしようとすぐ考えを変えたのでした。やはり、「モナド」の説明をしたあとにすぐ、西田幾多郎が「モナド」についてどう考え
25. ハイデガーと西田(13)――絶対矛盾の自己同一
さて、西田幾多郎が、ライプニッツの「モナド」について、どのように考えていたのかを見ていきましょう。西田は晩年、「モナド」という概念にとても興味をもち、みずからの哲学体系のなかの重要な要素として組みこんでいました。しかし一方で、世界の構造の最も基底の部分で、自身の考えとは大きく異なるものだとも考えていました。このことを
26. ハイデガーと西田(14)――時間論の比較
「ハイデガーと西田」という見出しで書いてきたにもかかわらず、後半は、ハイデガーの話がなかなかでてこなかったので、今回は、「ハイデガーと西田」というお話の最後に、この二人の哲学者の時間論を比較してみたいと思います。
28. 日本語と哲学(2)――誰のものでもあり、誰のものでもない
どんな言語でも、それは「誰のものでもあり、誰のものでもない」ものだと
29. 日本語と哲学(3)――もう一つの「文法」
ウィトゲンシュタインの「文法」という概念があります。これは、われわれが学校で習った「文法」ではなく、この哲学者独自の意味をもつ言葉です。言語の構造や用法、あるいは言語体系というのではなく、語がもっている独自の領域のことです。「語の文法」という言い方をします。
30. 日本語と哲学(4)――「こと」のイメージ、「もの」のイメージ
今回は、改めて「こと」と「もの」という日本語の語について、母語話者の一人である私の語感をもとに、これらの語のもつ「文法」を探ってみたいと思います。あくまでも私個人の語感ですので、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。ただこういう個々人の語感の集合が、母語内のそれぞれの語の「文法」を形成しているので、とりあえず
31. 日本語と哲学(5)――「こと」と「もの」はどちらが大きいのか
さて、さらに、他の人たちが、「もの」や「こと」について、どのように言っているのか、探っていきましょう。荒木博之という人の『やまとことばの人類学 日本語から日本人を考える』(朝日新聞社、1985年)というとても優れた本があります。荒木の考察を見てみましょう。
32. 日本語と哲学(6)―― 一度きりの「こと」、繰り返しの「もの」
さらに「こと」と「もの」について考えていきましょう。この話題を導入したときに、少し触れた長谷川三千子さんの『日本語の哲学へ』(ちくま新書、2010年)という本に、今回は焦点を当ててみたいと思います。この本のなかで、長谷川は、大野晋、荒木博之の「こと」と「もの」についての考えを次のようにまとめます。
33. 日本語と哲学(7)――木村敏の哲学
さて、ここまで、「もの」と「こと」について考えてきましたが、最後に木村敏の「もの」と「こと」についての考察を見てお終いにしたいと思います。木村敏という人は、本当にすごい人で、私のような哲学をやっている人間から見ると、二つの点で、大きな足跡を残した人だと思います。