前回、「絶対無」は、二つあることを説明しました。それは、個物側へと突き抜けていく「絶対無」(超越的主語面)と、すべての世界を包摂する底へ抜けていく「絶対無」(超越的述語面)の二つでした。そして、この二つの「絶対無」は、同一の領域であり、われわれのこの存在の世界と、いわば表裏をなしているということになるといいました。さて、今回は、さらにこの構造について考え、マルクス・ガブリエルの考える世界と比較してみたいと思います。 

鏡の比喩

 西田は、われわれの世界と絶対無の構造を、鏡の比喩を使って説明します。われわれの世界の底にある絶対無を、西田は「自ら照らす鏡」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ―場所・私と汝』岩波文庫、121頁)と表現します。なぜ、こういう比喩を使うのでしょうか。

 「鏡」というのは、とても不思議なものです。それ自身の表面には、何も存在していない(「無」)のに、他の対象を映すことによって、その表面に、ある世界が存在し始めるからです。「絶対無」のあり方と、とても似ているのではないでしょうか。何もないのに、電荷が発生すると「電磁場」が形成されるという、物理学の「場」とも、大変よく似ていると思います。

 西田が考えている世界は、この「自ら照らす鏡」から、すべてが発生していき、多くの層をなし、最終的に唯一無二の個物にたどり着くというものです。もちろんこの過程は、ビッグバン理論のような宇宙の誕生以降の時間の流れとは関係ありません。世界の(共時的)構造そのものを表しています。このとき、西田は、この層の一つ一つについてもまた「鏡」という言い方をします。つまり、一番底にある「絶対無」という「鏡」が自ら光をだし(存在の創造)、その光がそのつどの段階の「鏡」(一般者)に反映することにより、それぞれの世界を映しだし、最後は、無限の属性をもつ個物の世界を映す「鏡」にたどり着く。そして、それは、再び最初の「自ら照らす鏡」の領域に没していくという感じでしょうか。

 この比喩を、ちゃんとしたものにするためには、鏡が透明でありながら、光を反射し世界を映しだすものでなければなりません。そのような鏡が可能であれば、無限に重なり合う鏡によって、この世界は形成されているという比喩が可能になります。これは、どういう事態なのでしょうか。今度は比喩を離れて説明してみましょう。

「絶対無」から唯一無二の個物へ

 西田は、「一般者の自己限定」という言い方で、この世界の形成原理を説明します。「一般的なもの」が、自分を限定して、特殊なものになることによって、この世界ができあがっているというわけです。「絶対無の場所」というもっとも一般的なものが、だんだんと特殊化することによって、最終的に唯一無二の個物になるという方向性が、この世界を貫いているというのです。

 すべてを包摂する「絶対無」が、その包摂の範囲を狭めていく過程が、この世界の形成原理だというわけでしょう。「存在と無の対立以前の絶対無の場所」から「存在」が生成し(同時に「無」も生成され)、その存在が、さまざまな段階の「一般者」を経て、最終的に唯一無二の個物にたどり着く。存在、生物、動物、哺乳類、人間、例えば西田幾多郎(という個人)といった風に。そして、存在の背後に「絶対無」があるように、西田幾多郎という固有名をもつ存在には、第一段階の存在から人間までのすべての属性がたたみこまれていて、それも「絶対無」に通底していく、というわけです。

 これを西田は、無限の鏡の鏡映構造として考えています。西田がよくいう「自己が自己のなかに自己を映す」というのは、この構造だと思います。超越的主語面と超越的述語面の二つの無限の鏡が映しあうことによって、世界が成立しているということになるでしょう。最初は、超越的述語面である「絶対無」から、始原の光がでてくる(「自ら照らす鏡」)のですが、最終的に超越的主語面へと抜けて反転し、述語面へと反射していく構造になっているということだと思います。この二つの「絶対無」の鏡映構造によって、この世界は、生成し続けているのです。 

部分が全体を包摂する

 さて、この無限の鏡映構造のヒントを、西田は、アメリカの哲学者であるジョサイア・ロイスからをえました。マラルドという西田の研究者は、つぎのように説明しています。

諸君がいまいる、その地域の地図を諸君が描こうとしていると仮定してみよう(ロイス自身は、例として英国を選んでいる)。この地図は望み得る限り正確に描かれるべきものとする。そうすれば、その地図は一点一画に到るまでどんな細部でも全て描いており、それゆえその地域のどんな細部も地図上に対応する細部を持つことになろう。さて、地図が完全なものであるためには、この地図はそれ自身を写し取っていなければなるまい。なぜかと言うと、その地図自体が、地図に描かれる地域の一つの細部となっているからである。その「地図の中の小さな地図」はもっと小さな地図を描いていなければならず、このようにしてさらにさらにと、より小さな地図を無限にその中に写し取っていなければならないことになろう。(「自己写像と自覚」『西田哲学への問い』岩波書店、1990年、所収、43-44頁)

 その地域全体の地図を書くとき、その地図のなかに、自分も含めた地域すべてを畳みこまなければなりません。しかし、これは、不可能でしょう。全体(地域)を部分(地図)のなかにすべて入れることはできないからです。当たり前のことですが、全体が部分を包摂しているのであって、部分が全体を包摂しているわけではありません。しかし、この矛盾した状況を可能にするのが、「絶対無」という概念だと思います。どういうことか、説明しましょう。

 西田は、この世界全体をまるごと包摂することを目指していました。そのとき、一番問題になるのは、われわれの意識の構造でした。なぜなら、どれほどすべての存在を包みこんだとしても、それをわれわれが意識してしまえば、その存在全体を超えてしまうからです。西田の言葉を使えば、集合がどれほど大きくなっても、「相対無の場所」(意識一般)によって、その集合のすべての存在は包摂されてしまうのです。それが「存在」であるかぎり、相対的な「無」(意識)が包んでしまうというわけです。

 そこで、この「存在―無」(存在―意識)という二項対立が、まったく成立しない場所を要請せざるをえなくなったというわけです。それが、「絶対無」という概念なのです。だからこそ、「絶対無の場所」は、「存在―無」というわれわれの世界の究極の二項対立が、成立しない領域なのです。「成立しない」というよりも、「存在と無という対立が成立する以前の場所」であり、言いかえれば、「存在と無が同時に成立している(矛盾を許容する)場所」なのです。

 それでは、地図の例に戻りましょう。全地域を地図のなかに畳みこむのは、無理なのですが、それが、可能になる場所が、われわれを包みこんでいる、というのが、西田の考えです。ですから、地図を描いている人(意識)、描かれている地図(存在)、そして、その地域全体(存在全体)を、未分化の状態で、すべて包んでいるというのが、「絶対無」なのです。

 そして、そこにおいては、地図が部分で地域が全体であるから、地域が地図を含むだけではなく、地図(部分)が地域(全体)を含むということも同時に成立している(矛盾)のです。もちろん、「成立」という概念自体もまだ成立していない場所なのですから、こういういい方は、間違っているのですが。何と言っても、<そこ>は、存在と無の対立以前の場所だからです。

 地域全体の地図のなかの地図には、地域全体が描かれていて、その地域全体のなかの地図にもさらに地域全体が、といったように、この地図の地域全体包摂構造は、無限に進行していきます。この無限の地図こそ、「超越的主語面」の比喩だということがわかるでしょう。こうして、唯一無二の個物は、無限の底へ抜けていくというわけです。そして、その無限の底は、最初の地図を描いている人の背後(超越的述語面)に通底していることになるでしょう。この背後こそ、この地図を描くという事態(世界そのもの)を出現させた「絶対無の場所」だからです。

 ちょっと西田の「絶対無」に巻きこまれてしまいました。これでは、マルクス・ガブリエルまでたどり着けません。仕方ないので、最後に次回の導入として、彼の本から引用して終わりにしたいと思います。この地図の構造ととても似た構造について、マルクス・ガブリエルが書いているところです。

わたしたちが、絵に描かれた何らかの風景を観ているとしましょう。このときわたしたちは、この風景を誰かが描いたということを知っています。したがって、この風景画を描いた画家と当の風景画とがともに描かれた絵を、さらに想像することができます。しかし、この絵もまたやはり描かれたものです。それも、当の絵に描かれている画家によって描かれたものではありません。絵に描かれた画家は、絵のなかに描かれている絵を(絵のなかで)描いているにすぎません。そこでわたしたちは、もともとの風景画を描いている画家が描かれている絵を描いている画家が描かれている絵を想像することができる―これが無限に続きます。無限背進です。(『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳、講談社選書メチエ、112頁)

それでは、また次回。