さて、西田幾多郎が、ライプニッツの「モナド」について、どのように考えていたのかを見ていきましょう。西田は晩年、「モナド」という概念にとても興味をもち、みずからの哲学体系のなかの重要な要素として組みこんでいました。しかし一方で、世界の構造の最も基底の部分で、自身の考えとは大きく異なるものだとも考えていました。このことを今回は、お話したいと思います。1938年に書かれた西田の「歴史的世界に於ての個物の立場」(『哲学論文集 第三』所収)という論文を中心に見ていきたいと思います。

世界の根底にあるもの

 話をわかりやすくするために、大きく空間的側面と時間的側面とに分けてお話したいと思います。まずは空間的側面から。

 西田は、ライプニッツの「モナド」について、つぎのように説明します。

モナドは世界を映す生きた鏡と考へられる。一つの都市が種々の方角から種々に映される如く、各々のモナドは一つの世界を種々なる観点から映すのである。斯くして各々のモナドは又一つの世界と考へられる。窓なくして唯自己自身を映すモナドが、同時に一つの世界を映すといふ所に、予定調和があるのである。(『西田幾多郎全集 第八巻』岩波書店、2003年、308頁)

 とてもわかりやすい説明だと思います。世界全体の部分である「モナド」が、それ自身、鏡となっていて、世界全体がその部分に映りこんでいる(perception)。全体と、それを構成する部分が、まったく同じ世界を映していて調和的世界をかたちづくっている。そして、その調和を保証しているのが、神ということになります。

 西田は、つぎのように続けます。

ライプニッツは、かかる世界の自己同一を神に求めた。予定調和の根柢を神の創造に求めたのである。神がモナドとモナドとの一々対応の原理であるのである。(同書、309頁)

 こうしてライプニッツの「モナド」による世界は、前にも話しましたように、スタティックで整然とした鏡映し合う世界になります。西田の批判は、この背景に存在する神に向かいます。

 たしかに「モナド」のあり方である鏡映構造は、世界全体を貫いている。それはその通りだと西田は言います。唯一無二の個物(超越的主語)には、世界全体(超越的述語)がたたみこまれていて、同時にもちろん、世界全体(超越的述語)には、ありとあらゆる個物(超越的主語)が包摂されている(連載20回を参照)。個物と世界全体は、鏡のように互いを映しこんでいるのです。世界全体を描く絵画のなかには、その絵画そのものも描かれていて、その絵画には、さらに世界全体が描きこまれているように(連載22回を参照)。

 しかし、西田は、そのような鏡映構造の根拠を、「神」にはもとめません。西田が、この世界の根柢に据えるのは、「矛盾」です。矛盾こそが、この世界を成立させ、それを動かす源ともなっていると考えるのです。それでは、その矛盾とは、どのようなものでしょうか。

絶対矛盾の自己同一

 西田によれば、それは「多」と「一」との矛盾ということになります。唯一無二の個体は、「一」というあり方をしているにもかかわらず、そこに世界全体(つまり「多」)をたたみこんでいる。そして、それは同時に、世界全体を構成する個体群(「多」)が、ただ一つの世界にたたみこまれているということでもあります。多は一であり、一は多であるという鏡映構造が、神を背景にするのではなく、多と一とが絶対的に矛盾(決して統一されない)することによって成りたっている。矛盾が矛盾のまま自己同一的に映り合っているというわけです。西田の言葉を見てみましょう。

歴史的自然的に物が形成されると云ふことは、多が多たることを止めて一となると云ふことではなく、多が何処までも多となることが一となることであり、又一が一たることをやめて多となると云ふことでなく、一が何処までも一となることが多となることであり、両者相互否定的に一となると云ふことであるのである。そこにいつも絶対矛盾の自己同一といふものが働いて居るのである。一が一となることが一自身を否定すると云ふのは、疑問となるかも知れない。併し一が一となることは、多を含むこと、多を構成すること、多を生むことでなければならない。(同書、320-321頁)

 西田の考える世界の構造が、簡潔にまとめられていると思います。西田は、この存在に満たされている世界は、「絶対無の場所」に包摂されていると考えています。でも包摂するのが、「絶対無」なのですから、通常の「包摂」とは、まったく異なったやり方で、「包摂」されています。いわば、裏面から「無」で裏打ちするような「包摂」の仕方といえるかも知れません。したがって、この「包摂」も、実は、その原理は、矛盾だといえるでしょう。そもそも無が、存在(有)を「包摂」するなんて、できるわけがないのですから。

 だからこそ、マルクス・ガブリエルは、「世界は存在しない」といったわけです(連載21回参照)。「絶対無」は、「無」の絶対的なものですから、ガブリエルが考える世界の存在のための条件である「意味」など、そこ(とは言えない無の場所)には、まったく存在しない。枠組みも何もない「箱」(無そのもの)には、何も入れることはできないのです。ガブリエルによれば、意味という場を形成しないかぎり(「枠」をつくらないかぎり)、そこには、何も入れることはできないのです。

 ところが、西田は、いわば「枠組みのない箱」(無そのもの)が、存在の世界の裏面にぴったり貼りついていると考えたわけです。こんな言い方をすると、この「箱」(無そのもの)が実体的なもののように思われますが、この「箱」は、透明ですし、もちろん、なにものでも無い。そして、そのような絶対的な無そのものが、支えている(無なので、実は、支えていないやり方で)ことによって、初めて世界は存在する。そして、この「絶対無」が存在を支える(世界の裏面に貼りつく)ための「接着剤」が、「矛盾」だということになるのです。

 世界の存在は、その絶対的な否定である「絶対無の場所」に包まれています。ただし、「絶対無の場所」は、存在の単なる否定である「無」ではなく、「存在と無の対立以前」の場所です。したがって、われわれが存在しているこの世界が生じるのは、「存在と無の対立以前」の場所において、「矛盾」といういわば渦が発生し、その渦によって、「存在と無の対立そのもの」が生じるからなのです。

 そして、この「矛盾」という渦は、われわれの世界(存在と無の対立以後の世界)を動かすエネルギーのようなものとして常に基底にありつづけることになります。このようなあり方で、世界そのものを動かす原理を「絶対矛盾的自己同一」と西田は表現するのです。

非連続の連続

 さて、時間的側面の話に移りましょう。西田の考える時間の流れも、やはり「矛盾」が深くかかわっています。西田の時間は、「非連続の連続」と表現されるものです。いっけん連続しているように見える時間の流れは、実は、非連続だからこそ連続しているというのです。どういうことでしょうか。

 西田が、ライプニッツとの違いを意識しながら、「非連続の連続」という時間の流れを説明するところを引用してみましょう。

而も世界とはモナドとモナドとの相互関係から成るものでなければならない、形作られたものでなければならない。非連続の連続として自己矛盾的な世界が、矛盾的自己同一として、無限に自己自身を映すと考えることができ、何処までも自己自身を限定する個物としてのモナドは、その一つの射影図として一つの世界といふことができる。非連続の連続とは相互表現といふことでなければならない。(中略)ライプニッツの表現といふのは、主知的にして、唯映すとか、記号的に表現するとか云ふのであるが、表現すると云ふことは表現作用的に働くことでなければならない、一即多多即一の弁証法的世界の個物として働くことである。而してそれは歴史的制作的に物を作ることである、創造することである。(同書、322頁)

ライプニッツの静態的な「映すとか、記号的に表現する」という「モナド」のあり方ではなく、西田によれば、モナド同士がダイナミックに関係しあうことによって、世界が進行していくというわけです。西田のいう「モナド」は、その「一」のなかに、世界全体の「多」をたたみこみつつ、他の「モナド」とつぎつぎと関係しながら、世界を動かしていく。だからこそ、「非連続の連続」なのです。個々の「モナド」という「非連続」が、相互に矛盾しつつ同一であるというあり方で関係しあうからこそ、世界は「連続」的に進行していくというわけです。

 ライプニッツの考えるように、予定調和的にモナド同士が鏡映し合っている世界ではなく、「矛盾」という突き動かす力によって、そのつどの世界(西田のいう「モナド」)が創造され、つぎの「モナド」と絶対矛盾的に同一のものとして連続していくというわけです。

 最後にライプニッツとの違いを、西田自身がはっきりと書いている箇所を引用して、今回は、終わりにしたいと思います。

個物を表象的と考へるならば、モナドロジーの考は、それ以上に考へられないと思はれる程、巧緻を極めたものと云ひ得るであろう。併し私はライプニッツと立場を同じうするのではない。私の個物と個物といふのは相働くものである、相否定するものである、自己自身を否定することによつて肯定するものである。生まれるものであり、死するものである。神によつて創造せられた不生不滅のモナドではない。さういふ個物は考へられたものに過ぎない。私の個物といふのは弁証法的に一に対する多である。多即一一即多として自己矛盾的に自己自身を形成し行く世界の自己否定的契機といふべきものである。此故に私の考はモナドロジーではない。私の考の要所は、個物と個物との予定調和にあるのではなくて、作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界にあるのである。(同書、328頁)

この西田の文章を読むと、ライプニッツがモナドの鏡映構造の背後に神を据えているのに対し、西田は、鏡映構造の根源に「矛盾」を据えていることがわかります。時間の流れという動的メカニズムの根柢に「矛盾」を据えているのです。こうして、世界の流動(「非連続の連続」)の根源には、「絶対矛盾的自己同一」があるのだ、ということになるのでしょう。