さて、前回けっきょくよくわからなかった「モナド」にもう一度挑戦してみましょう。今回すこしでも理解できるように、四つのイメージをひねりだしてみたいと思います。かなり無理やりですが、これらのイメージで、何となく「モナド」をイメージして、西田のライプニッツ批判(というよりも、西田によるライプニッツとの違いの自覚)に移りたいと思います(おそらくこれは、次回になりますね)。うまくいくかどうか、ひじょうに不安ですが始めてみましょう。

「モナド」は「超ひも」である

 最初のイメージは、前にも例にだしました「超ひも」(超弦)を「モナド」だと考えてみます。「原子」(これ以上分割できないという意味での)でもいいのですが、何となく現時点で最小単位の候補になっている「超ひも」の方が、イメージしやすいと思いますので、こちらで話をすすめます。

 この「超ひも」は、振動するエネルギー状態で、特定の形はありません、まさに「モナド」のように。そして「モナド」は、ライプニッツによれば、精神的なもの(「魂」)なので、このイメージとしての「超ひも」は、「精神原子」とでもいえるようなものだと考えてください。

 それでは、この世界に存在するひとつの「超ひも」にフォーカスを当ててみましょう。この「ひも」は、世界の構成要素なのですから、世界全体に包摂されています。無数の「超ひも」が、この宇宙のなかにひしめきあっているというわけです。それと同時に、ある特定の一つの「超ひも」から出発して世界全体を考えることもできるでしょう。この宇宙の最小の構成要素(「超ひも」)のすべてが、この宇宙を成り立たせるために必要なのだとすれば、ぎゃくに特定のこの「超ひも」から出発しても、宇宙全体にたどり着くことは可能だからです。特定の「超ひも」と宇宙全体の関係を考えれば、どちらから出発しても、最終的に相手(部分から全体へ、全体から部分へ)にたどり着きます。全体(宇宙)は、部分(超ひも)を包摂していますし、部分(超ひも)も全体(宇宙)を構成するどうしても必要な要素だからです。

 このような不可分な関係を前提とした、「モナド」と世界全体のあり方を、「表象」(perception)とライプニッツは呼びました。宇宙に包摂されている「モナド」が、同時に宇宙全体を自らのうちに包摂しているというわけです。この「表象」という語を、佐々木能章先生は、「映し込み」と訳した方がいいのではないか、と提案されています(『ライプニッツ術』工作舎、113頁)。事態をひじょうにクリアに表した、とてもいい訳だと思いますので、このいい方を使いたいと思います。ようするに、「モナド」は、宇宙全体を自分のなかに「映し込んで」いるのです。

 柿のタネが、その柿にとってどうしてもなくてはならないものだとすれば、柿全体が、そのタネを包みこんでいるといえると同時に、そのタネも、柿全体を包んでいるともいえるのではないでしょうか? 柿とタネは、双方が双方にとって絶対に必要なものだからです。物質的な包摂関係は、たしかに柿全体がタネを包摂していますが、しかし同時に、不可分な関係という観点からは、柿全体とタネは、相互に包摂しあっている関係だともいえるでしょう。

 そう考えると、宇宙全体が、特定のこの「超ひも」を包摂しているということは、特定のこの「超ひも」が宇宙全体を「映し込んでいる」(ある意味で「包摂している」)ともいえるのではないしょうか。だって、この「超ひも」が、ひとつでも欠ければ現時点での全世界ではなくなりますし、他のすべての構成要素(「超ひも」)に関しても、この関係は同じことだからです。

 こうして、宇宙を構成している「超ひも」は、すべてそれぞれ特定の場所やその特定のあり方から、宇宙全体を「映し込んでいる」とライプニッツは考えたのです。ちょっとわかりにくいですかね。では、ちょっと違った角度から説明してみましょう。

「モナド」は<私>である

「私」(というあり方)を「超ひも」だと想定してみましょう。この「私」は、私とはいっても、<私の心>や<私の精神>といった場合の<私>です。いわば、この宇宙を形成している<私>という「精神原子」とでもいえるものです。

<私>は、もちろんこの宇宙のなかに存在しています。もっと正確にいえば、この<私>は、「私の身体」と同じ場所にいます。<私>は、「私の身体」とは、あきらかに異なるものですが(ここは、いろいろ議論になるところですが、今回は常識的に考えて)、この物質からなる宇宙の一物体(「私の身体」)と密接に関係するあり方で、この宇宙内に存在していることはたしかです。

 ところがその肉体と同じ場所にいる<私>は、「私の身体」とははっきり異なったあり方をしています。思考や想像によって、<私>のなかに宇宙全体を包摂することができるのです。つまり、ビッグバン以来の宇宙の歴史も、太陽系の惑星たちの複雑な動きも、生物の進化史も、何もかも、<私>の頭のなかで考えることができるからです。まさに宇宙全体を<私>のなかに「映し込む」ことが可能なのです。身体としては、宇宙のなかにあるのに、<私>という「精神原子」は、宇宙全体をまるごと内側に包摂する(映し込む)。これがまさに、「モナド」のあり方だといえるでしょう。

 もし「超ひも」が、<私>のような「精神原子」だとすれば、宇宙全体に拡がっている「超ひも」というエネルギー状態は、宇宙全体をみずからのうちに「映し込ん」でいるということになるでしょう。ライプニッツ自身も、「モナド」のことを、私たちの「自我」や「意識」をモデルにしていたようなので、この<私>というイメージは、かなり「モナド」に近いのかもしれません。(『ライプニッツ哲学研究』山本信著、東京大学出版会、139頁、『ライプニッツ』フランクリン・パーキンズ著、梅原宏司ほか訳、講談社選書メチエ、148頁など)

「モナド」はスマホである

 さらにつぎのイメージに移りましょう。現在私たちの生活に欠かせないパソコンやスマホを例に考えてみましょう。パソコンやスマホは、全宇宙に比べると、本当に小さい機械ですが、そのなかには、全宇宙にも匹敵するような膨大なネットワークが入っています。パソコンのなかに「入っている」というのは、言いすぎかもしれませんが、電源を入れれば、パソコンやスマホのディスプレイには、全ネットワークが「映る」ことは可能でしょう。全宇宙に比べれば、それはとても微小なものかも知れませんが、情報という観点からは、全宇宙に劣らない全ネットワークを包摂しているものだといっても過言ではありません。

 もし、パソコンやスマホが、形のない「気体状のもの」(?)であれば(つまり「精神原子」的なものであれば)、まさに「モナド」と同じあり方をしているといえるでしょう。この全宇宙(地球上?)に遍在しているパソコンやスマホという端末(「単子」?)に、全ウェブ宇宙が「映し込まれている」というわけですから。パソコンやスマホは、物体としては、宇宙に包摂されていますが、しかし同時に、その画面には、全宇宙を「映し込む」ことができる。しかも、ネット環境やパソコンやスマホの性能の違いによって、ネットワークの映し込みにも、違いがでてきますので、まさに「モナド」的なあり方をしているといえるかも知れません。

「モナド」は「変数」である

 最後に四つ目のイメージを紹介したいと思います。これは、もっとも抽象的なイメージなのですが、一番「モナド」のあり方に近いかもしれません。(そうはいっても、実は、自信ないのですが)

 数学の変数というのがあります。「x、y、z…」といった記号で表されるものです。とても便利な記号ですが、よく考えると何やら恐ろしい側面ももっています。何といっても、この記号を書いたとたんに、そこには、無限が現れてくるからです。x、y、zといった変数には、あらゆる数字を代入することができます。

 ここで、おかしな世界を考えてみましょう。数だけの世界です。自然数、分数、小数、有理数、無理数、虚数も、すべての数が、ひしめきあっている世界です。そのような数の宇宙に、「変数」(x、y、z…)というものも存在しています。それは、透明な箱のようなもので、手で触ったり目で見たりはできません。ただ、どんな数でも、その箱に入れることはできます。

 そして、実は、それぞれの変数(という箱)には、全数字がぎっしり入っている(「映り込んでいる」)と想定してみましょう。ただ、それぞれの変数には、x、y、z…という名称が、ついていますので、それぞれの変数の位置やあり方(他の変数との関係性)で、個別性はもっています。つまり、個々の透明な箱のなかに全数字は入ってはいるけれども、それぞれの変数は、何から何まで同じというわけではない、ということになります。x、y、zに、同じようにすべての数は入っているけれども、x、y、zという記号名の違いがあるように、はっきりした違いはある。x、y、zの関係性やその位置による違いがあるというわけです。「x=y」ではないし、「y=z」でもないし、「z=x」でもない、という感じでしょうか。このように考えると、この「数世界」における「変数」は、まさに「モナド」だといえるでしょう。

 いかがでしょう?これが一番わかりにくいですかね。イメージとしては、失敗かも知れません(笑)。ただ、われわれのこの世界にも、この「変数的モナド」のようなものがあります。「もの」や「こと」といった言葉です。この「もの」や「こと」という箱には、どんな「ものやこと」も入れることができます。全宇宙のすべての構成要素、全出来事、すべての現象を代入することができます。

 でも、特定の「もの」や「こと」が、その透明な箱(「こと」「もの」)に入ってしまうと、その「もの」や「こと」は、特定の<物事>になります。つまり、特定の視点が誕生することになります。でも、その視点を保ったままで、「もの」「こと」としての無限包摂性(すべてを代入できる)をも依然としてもっているのであれば、この「もの」や「こと」も、とても「モナド」に似たあり方をしているといえるかも知れません。もちろん、その「もの」や「こと」が、「精神原子」的なあり方をしていればの話ですが。

 いかがでしょうか? かなり強引な説明だったかもしれません。少しは、「モナド」のイメージがつかめたでしょうか?さらにわからなくなった?すみません。私にも責任があるかもしれませんが、ライプニッツにも少しは、責任をとってほしい(笑)ところです。

 次回は、この「モナド」に対する西田幾多郎の考えをざっと見てみたいと思います。