「ハイデガーと西田」という見出しで書いてきたにもかかわらず、後半は、ハイデガーの話がなかなかでてこなかったので、今回は、「ハイデガーと西田」というお話の最後に、この二人の哲学者の時間論を比較してみたいと思います。
人間は「おのれを時間化する」
ハイデガーは、『存在と時間』(Sein und Zeit、1927年)という主著のタイトルからわかるように、存在と時間が深くかかわっていると考えていました。ハイデガー自身の面倒な説明を省略して、いきなり結論を言うと、「人間(現存在)の存在の本質は、時間だ」というのです。これは、いったいどういうことでしょうか。
木田元先生の『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)という本を手引きにしながら、考えてみたいと思います。これは、以前にも書きましたが、ハイデガーによれば、人間(現存在)の特徴は、他の存在者たち(犬や猫、蛇や昆虫などなど)とはちがって、自分なりの「世界」(ドイツ語でWelt)をもっているという点でした。他の存在者が「環境世界」(ドイツ語でUmwelt)に、いわば埋没しているのに対して、人間は、自分自身のオーダーメイドの「世界」をつくりあげているというわけです。このあり方を、ハイデガーは、「世界内存在」(In-der-Welt-sein)と呼びました。
そして、この「世界内存在」に深くかかわるのが、「時間」なのです。ようするに、「時間」のあり方と人間(現存在)のあり方とが本質的に関係しているので、人間は、「時間」によって「世界」をもつことが可能になるというわけです。このかかわり方(時間特有のあり方)を、ハイデガーは、「おのれを時間化する」(sich zeitigen―sichは「自分自身」という意味で、zeitigenは、Zeit(時間)という名詞を動詞にしたものです)と言います。いわば、人間だけが、「時間の世界をつくりあげる」といった意味だと思います。
木田先生の文章を引用してみましょう。
「時間性は存在するのではなく、おのれを時間化する」(SZ328―『存在と時間』の初版のページ数です(中村補足))というのもおかしな言い方だが、時間性は存在者のように存在するものではなく、おのれを時間化する、おのれを時間として生起させる働きとしてあるものだと言いたいのである。もう少しくわしく言えば、〈現在〉のうちにいわば差異化が起こり、ズレが生じ、通常〈未来〉とか〈過去〉とか呼ばれている次元が開かれ、時間という場が繰りひろげられる事態を、〈おのれを時間化する〉〈おのれを時間として生起させる〉といった言い方で言い当てようとしているのである。(70-71頁)
他の存在者とちがって、人間だけが、未来や過去をもつ(「おのれを時間化する」)というわけです。「環境世界」に深く埋もれている存在者(人間以外の生きもの)たちは、〈現在〉という時点に縛られています。そのため、計画を立てたり、明日の心配をしたり、自分の死について恐怖を抱いたり、昨日の失敗を恥ずかしく思ったり、過去のもろもろの事柄を後悔したりはできない、ということでしょう(本当のところは、私にはわかりませんが…)。
つまり、人間(現存在)だけが、この時間のもつ「時間化」という現象によって、〈現在〉から離れ、〈未来〉や〈過去〉といった〈いま・ここ〉ではない次元を開くことができるのです。時間性という特別な〈場〉が、「現存在」には、開かれるというわけです。だからこそ、「世界内存在」という現存在(人間)だけのオーダーメイドな場も可能になるのです。こうして時間的次元を開くことを、ハイデガーは「超越」と呼びます。
ところで、このような〈シンボル機能〉が時間性によって、つまりは現存在が〈おのれを時間化し〉(sich zeitigen)、過去—現在—未来という時間的次元を開くことによって可能になることは言うまでもない。ハイデガーは、この機能によって生物学的〈環境世界〉を越え出て〈世界〉へ開かれることを〈超越〉を呼ぶ。(中略)ハイデガーはこの概念もあくまで存在論的意味で使う。現存在は〈環境世界〉を脱け出て〈世界〉へ超越するのである。(114頁)
このようにハイデガーの『存在と時間』の時間論を見てくると、「おのれを時間化する」という時間の本質構造が、われわれ「現存在」の根柢にあることがわかります。〈現在〉を差異化し〈未来〉や〈過去〉という地平をつくりだすことによって、存在の次元(人間だけの場)を開くということになります。ハイデガーによれば、このことこそが、われわれ人間(現存在)の存在を成りたたせている根源的な構造なのです。
〈現在〉そのものの奥底へ
さて、このようなハイデガーの時間論に対して、西田は、どういう時間にかんする考えを展開したのでしょうか。前回も、ほんの少し触れましたので、おおよそのところは、おわかりかと思います。『無の自覚的限定』(1930年-1932年、『西田幾多郎全集 第五巻』岩波書店、2002年)という論文集を手がかりにしてみたいと思います。
西田の時間論の中心は、〈今〉にあります。したがって、「おのれを時間化」することによって、〈現在〉を差異化し、時間性の場をつくりだすというハイデガーの時間の考え方とは、ずいぶんちがいます。
しかし、西田の時間は、〈現在〉や〈今〉に、閉じこもっているわけではありません。その〈現在〉や〈今〉の底が抜けるのです。ハイデガーの時間が、〈現在〉〈今〉を「超越」して、あらたな〈未来〉〈過去〉への次元を開くのに対して、西田の時間は、この世界の基底にある〈絶対無の場所〉へと垂直に「超越」します。それを、西田は、「永遠の今の自己限定」と言います。
併し私の永遠の今の自己限定といふのは唯、現在が現在自身を限定することを意味するのである。移り行く時と永遠とは現在に於て相触れて居るのである、否、現在が現在自身を限定するといふこの現在を離れて、永遠といふものがあるのではない、現在が現在自身を限定すると考へられる所に真の永遠の意味があるのである。(109頁)
ハイデガーのように、〈現在〉に閉じ込められた存在者たちと、〈現在〉を「時間化し」、それを超越することによって、〈未来〉と〈過去〉の地平をつくりだす「現存在」という対比で考えるのではなく、西田は、〈現在〉そのもののなかに、時間の流れ(移り行く時)と流れない時間(永遠)との矛盾的自己同一を見てとり、その矛盾こそが、時間の本質だと考えるのです。
ハイデガーは、〈現在〉を越えて(外側への超越)、時間性の場をつくりだすという現存在のあり方に着目するのに対して、西田は、あくまでも〈現在〉そのものの奥底へと潜りこみ(内側への超越)、そこに矛盾の生成と〈絶対無の場所〉を見いだしたのだといえるでしょう。
西田の文章を引用してみましょう。
無にして、自己自身を限定するものの自己限定として、無の場所的限定として、時といふ如きものが考へられるのである。(145頁)
ハイデガーの「おのれを時間化する」という働きに対して、西田の場合は、「無の場所的限定」こそが、時間の本質をなしているといえるかも知れません。あくまでも、われわれの存在の根柢をなす「無という場所」が、自己限定する(ハイデガー流に言えば「おのれを存在の場所化する」)ことによって、時間が流れるということになります。
〈現在〉と〈過去〉〈未来〉との関係についても、西田は、ハイデガーとは、ずいぶん異なった言い方をします。
而も上に云つた如く現在といふものから過去と未来とが考へられるのである、過去から現在が限定せられるのではなく、現在が現在自身を限定することによつて、過去と未来とが限定せられるのである、現在といふものなくして時といふものはない。(146頁)
西田の出発点は、この〈現在〉が、まったく流れていないのに、なぜか時間は流れていく、というフッサールの「生きいきした現在の謎」と同じ地点だと考えられます。われわれは、〈今〉〈今〉〈今〉…という非連続な量子的状態にいるのに、なぜか、時の連続した経過があるという「謎」です。この〈現在〉の不可思議なあり方を解明するためにも、われわれの〈今〉の根源に〈絶対無の場所〉があって、その〈絶対無〉が、自己限定という働きで、存在の領域を開くことによって、はじめて時間は流れていく、と考えたのだと思います。
ハイデガーと西田の時間論を比較するのは、やはりとても難しいと思います。そもそもハイデガーは、「現存在」という概念を提唱することによって、「認識論的主観」といったそれまでの人間観からきっぱり離れました。それに対して、西田の「絶対無の場所」は、「認識論的主観」(「相対無の場所」)の底に、さらにそれが抜けるようなあり方で存在している(かつ、存在していない)ものだからです。ようするに、時間論を考える出発点が、かなりちがうのです。
それに、「絶対無の場所」を俎上に載せるのであれば、「転回」(ケーレ)以降のハイデガーの存在論も、問題にしなければなりません。そんなことを言い始めると、いろいろと面倒なことになるのです。(笑)
まぁ、それはそれとして、今回は、『存在と時間』(1927年)の時間についての考えと、『無の自覚的限定』(1932年)における時間論との比較は、ある程度できたのかなと思っています。
これで、「ハイデガーと西田」というお話は、おしまいにしたいと思います。なんか逃げるような終わり方ですが、これはこれで、私らしいと言えば私らしい。
次回以降については、お楽しみということで。