天才・土方巽のもとでやっていた暗黒舞踏をやめて、大学の授業にちゃんと出始めたのは、1980年でした。土方の深い影響を直前に、激雨のように受けていましたので、大学の授業は、どれもこれも刺激がなく、この上なく味気ないものに思えました。ただ、他にやることがなかったので(実は、その頃から将棋に夢中になっていたのですが、それ以外は何もないという意味です)、ぼんやり大学に行き、身体だけは教室のなかに運んでいました。でも、そんな精神の砂漠のような時期に、ひとつだけオアシスのような授業がありました。それは、丸山圭三郎先生の「仏語学概論」という授業でした。これは、なかなか刺激的でした。この授業で、ソシュール言語学についてのとても魅力的な概念(「シニフィアン―シニフィエ」とか「恣意性」とかの例のやつ(?)です)をつぎつぎと覚えていきました。新しい概念の世界が開けていく、という感じだったのでしょうか。とても新鮮でした。
その頃の丸山先生は、名著『ソシュールの思想』(1981年)を刊行される直前で、たいへん熱気のある教室でした。私も、ソシュールの言語に関する考察に目の覚めるような思いをしたものです。ただ、これは以前、本にも書きましたが、中学の頃から小林秀雄が好きだった生意気な大学生にとっては、他の学生とはちがって、少し斜に構えたところもありました。この程度のことなら、小林秀雄が難しい言葉など使わずに、さらっと説明してるではないか、というわけです。生意気ですね。ただ、この感覚(どんなことでも、難しい言葉を使わずにさらっと説明できるはずだという感覚)は、いまも続いていますし、私が、ウィトゲンシュタインを専門にしたこととも、とてもかかわりがあると思います。卒業論文は、丸山先生のゼミで、『ソシュールとウィトゲンシュタイン』というとんでもない題名のものを書きました。それが原因で、丸山先生とは、かなり距離ができました(笑)。
学部の時には、もうひとつとても心に沁みる授業がありました。丸山先生とはちがって派手さはないのですが、とても渋い味のある授業でした。「哲学」というタイトルの授業で、木曜日の一限でした。朝早い一限の割には、受講生も結構いる講義です。木田元という先生が、低い小さな声で話しつづけていました。その頃の木田先生は、『ハイデガー』(1983年)という本を出す直前で、ハイデガーの哲学史観をベースに、西洋哲学をくわしく解説するという授業でした。とても面白く、この授業だけは、勤勉に出席しつづけました。この授業で改めて哲学を意識した私は、哲学専攻の大学院に進むことを決意したというわけです。
大学院に入ると、不思議なことに木田先生の演習では、隔週でハイデガーの『存在と時間』(Sein und Zeit)とウィトゲンシュタインの『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen)を読んでいました。なぜ「不思議」かというと、ハイデガーは、もちろんわかるのですが、なぜ、木田先生が大学院でウィトゲンシュタインを読もうと思われたのか、ということです。それは、実は、いまだによくわかっていません。木田先生が『ハイデガー』をだされたのと同じ年(1983年)に、メルロ=ポンティの共訳者である滝浦静雄先生が『ウィトゲンシュタイン』(同じ岩波書店の「20世紀思想家文庫」というシリーズ)を刊行されたのとも関係があるのかもしれません。ただ、これは、あくまでも勝手な推測にすぎません。
さて、やっと、ハイデガーにたどり着きました。何と長い「枕」だったんでしょう。ハイデガーの話をするためには、どうしても、長い前置きが必要になるのでしょうか。私のなかに、ハイデガーに対して、何か無意識的な高い壁のようなものがあるのかもしれません。
大学院に入ってからは、ハイデガーとは、いろいろなつきあいができました。もちろん、その前も、翻訳では読んでいましたが、この人の本は、最初の問いは、とても魅力的なのですが(「「存在」とは何か?」といったもの)、途中から(必ずと言っていいほど)語源学的な話を始めるので、読んでいていつも辟易(へきえき)していました。読みながら、ポイントは、そこじゃないだろう、と思ってしまうのです。
でも、木田先生の指導の下で院生になったのですから、そんなことは言っていられません。演習での『存在と時間』もそうですが、博士課程に入ってからは、木田先生の学外の読書会で、ハイデガーの講義録との濃密で長いつきあいが始まりました。その読書会では、四年間くらい毎週、ハイデガーを、参加してる人の前で訳読しました。こうして、専門がウィトゲンシュタインだったわりには、ハイデガーが、ずかずかと私の領域に入ってきたのです。私にとっては、そのように浅からぬ縁のあるハイデガーの「哲学」観を今回は、探ってみたいと思います。
ハイデガーの問
ハイデガーの『形而上学とは何か』(1929年)『形而上学入門』(1953年)『それは何であるか―哲学とは』(1956年)などを手がかりにして、考えていきましょう。ただし、これはあくまでも私の視点からの説明です。ハイデガーの言葉つかいに丸めこまれないように用心しながら進んでいきます。そこで、変な思考実験をしてみましょう。さっきも書きましたが、私は、将棋が好きで、以前は、よく指しました。いまは、まったく指す機会はなく、完全な「観る将」です。さて、その将棋を例に考えてみましょう。
「将棋」は、一つのゲームであり、「将棋」の対局がおこなわれている場では、すべてが将棋とかかわっています。将棋盤、将棋の駒、将棋を指している人、将棋を指す道場、対局に立ち会っている人、将棋飯(将棋の対局中にとることのできる食事)、などなど、すべてが将棋と関係してきます。そしてここから変な想定なのですが、不思議なことに、こうした将棋だけがおこなわれている世界がどこかにあると仮定してみましょう。その世界では、生まれたらすぐ、誰もが将棋を指し始め、一生毎日将棋を指し続けるのです。
私たちが、生まれてすぐ、生まれた場所の言葉を否応なくシャワーのように浴びながら成長するように、この世界では、生まれたら全員が、問答無用で将棋を指し始めます。母語を生涯話しつづけるように、一生の間、将棋だけを指しつづけるのです。赤ん坊のおもちゃは、もちろん将棋の駒であり、使う言葉も、将棋用語や将棋にかかわっていることだけなのです。そこは、将棋一色の世界、つまり「将棋界」とでも言える世界です。
ところが、そのような「将棋界」の住人のなかにも、日々の将棋生活以外のことを考えてしまう人たちがいます。その人たちは、ようするに面倒で難しいことを考えてしまうのです。仮にその人たちを「哲学者」とでも呼んでおきましょう。その人たちは、「なぜ何もしないのではなく、だれもが将棋を指しているのか?」という問にたどり着くのです。この問こそが、最も根源的な問だということに気づいてしまったのです。「いったいわれわれは、毎日何をしているのか?」「なぜ、われわれは、何もしない無の状態ではなく、将棋ばかり指しているのか?」というわけです。
この哲学者以外の人たちは、将棋のルールのことであるとか、将棋の駒の材質のことであるとか、将棋飯が美味しいとか不味いとか、あの人とは対局したくないとか、そういうことばかり考えていました。ところが、「将棋界」の哲学者が考えたのは、これらの将棋の具体的な問題ではなく、「将棋」そのもののことだったのです。誰もが、何も考えずに毎日毎瞬やっていたゲームそのものを根底から疑ったというわけです。この二つの問題は、問題のレベルがまったく異なるのはわかるでしょう。
「将棋界」には、将棋に関係する以外のものは存在しません。だから、普通の人たちは、そのことを疑ったりはしません。それ以外の可能性に気づくのは、かなり難しいことだからです。ところが、哲学者たちは、それ以外の可能性に気づきました。つまり、この世界の枠組み自体、この世界の基盤自体に鋭く着目したということになります。
「なぜ無ではなく、将棋(存在)なのか?」「なぜ、わけもわからず小さい頃から、将棋ばかり指しているのか?」「なぜ、この世界は、ゲームのない世界ではないのか?」そして、将棋の比喩から離れれば、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」この問こそ、ハイデガーが考える「哲学」の問なのです。
私は、たしかに一人の人間であり、他にも多くの人間が、この世界には存在しています。人間だけではなく、犬や猫も、桜や銀杏や薔薇やタンポポも、家や道路や山や川などなど。これらは、すべてこの世界のなかに存在してる「もの」(者、物)なのです。ハイデガーの言葉でいえば、「存在者」(存在しているモノ=Seiendes)ということになります。これもたしかに驚くべきことですが、そもそもそれらの「存在者」を成りたたせている「こと」の途轍もなさに比べれば、たいしたことはないでしょう。「存在」そのものという「こと」の出来(しゅったい)。「存在」(Sein)が生起したという「こと」。これは、もう言葉にはならない驚きだと言わざるをえません。
ハイデガーの言葉を引用しましょう。
初めにわれわれは「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問を掲げた。われわれはこの問を問うことが哲学することだと主張した。われわれが考えながら周囲を見渡して、この問の方向に向かって心を開くならば、われわれはまず、存在者の普通の領域のどこかに立ちどまることをすべて断念したことになる。われわれは平常どおりのことを超え出る。(『形而上学入門』ハイデッガー選集9、川原栄鋒訳、理想社)
さて、このハイデガーの哲学観について、どのようなことが言えるでしょうか。次回、いくつかの観点から考えてみたいと思います。