荘子と「世界内存在」

 ハイデガーの「世界内存在」が、実は、岡倉天心経由の、もともとは荘子のアイデアだったという驚くような話が、木田先生の『ハイデガー拾い読み』(新潮文庫)の一九一頁以下にでてきます。今道友信さんの本(『知の光を求めて―一哲学者の歩んだ道』中央公論新社、二〇〇〇年)を引用して紹介されています。この話は、本当に面白い。ちょっとだけ、木田先生の本から、今道さんの文章を再引用してみましょう。

 二十世紀の重要な哲学のひとつに実存主義があります。実存を語るとき、誰もが使う「世界内存在」という概念があるのです。これはハイデガーの使ったドイツ語「Das In-der-Welt-Sein」の訳として私の先輩たちがこんな風にしたものですから、まるでハイデガーの造語のように日本では思われてますけど、実は荘周(荘子)の「処世」という術語の間接的なドイツ語訳なのです。天心岡倉覚三がロンドンで“The Book of Tea”(茶の本)を書いて出版したとき、荘周の「処世」を英訳して「Being In The World」としたのは十九世紀末でした。それが一九〇八年シュタインドルフによってドイツ語に訳された際、この英語がそのまま逐語訳されてあのようになったという次第です。

 なぜ、こんなことが言えるのでしょうか。実は、今道さんの恩師である伊藤吉之助(1885年- 1961年、哲学者。晩年は、中央大学でも教鞭をとった)は、一九一八年ドイツに留学した時、ハイデガーを家庭教師に雇っていたということです。そして、伊藤が帰国の途に就くときの話になります。もう少し引用しましょう。

 伊藤は帰国に際し、お礼の心つもりで『茶の本』“Das Buch vom Tee”をハイデガーに手渡しました。それが一九一九年。そして一九二七年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版され、あの術語が何のことわりもなしに使われていたので、伊藤は驚くと同時に憤慨もしました。

 いやぁ、何とも面白い話ですね。いろいろありますね、この概念には。さすが(?)ハイデガーです。 

世界と意味

 閑話休題。「世界内存在」について、さらに補足の説明をしていきたいと思います。前回お話しした、「現存在」(=人間)が「存在」の場を開くというのは、どういうことでしょうか。「現存在」だけが、「存在」について理解し、「存在」の場を開いていると、ハイデガーは言います。

 これは、後期ハイデガーでは否定されますが、『存在と時間』では、あくまで「現存在」が出発点であり、主役になっています。(それに対して後期では、「現存在」ではなく、「存在」そのものが場を開くことになるのですが。)

 「現存在」がなぜ、それほど特別なのでしょうか。この問の答は簡単です。「現存在」が「超越」しているからです。では、その「超越している」というのは、どういうことでしょうか。周りの世界を「超えている」。つまり、周りの環境から離脱し、環境に縛りつけられていないということです。

 前回説明しましたように、「現存在」だけが、周りに自分独自の「世界」を形成します。自分に都合のいい「道具連関」的な領域(自分にとって役にたつものだけの場所)を開くというわけです。「現存在」は、周りの場を開き、その外側(=「世界」)に(超越して)いるということになるでしょう。

 つまり、ほかの「存在者」に比べると、はるかに「自由」にその場所で生きていけるということになります。ほかの「存在者」たち、犬や猫や万年筆や樫の木などは、どうしても周りの環境に縛られて生きていくしかありません。犬や猫は、たしかに動きまわることはできますが、食べ物や外敵などの苦労が絶えません。「現存在」の生活圏にいない(飼われていない)かぎり、いっときも安心して暮らしていくことはできない。ようするに環境に、いわば「埋没している」というわけです。それに対して、「現存在」様だけは、周りに埋没(内在)せずに、「世界」に超越して生きているということになるでしょう。

 ところが、だからこそ(このあたりから私の強い解釈が入ってきます。用心してください)、人間(「現存在」)だけが、「無」という事態を経験すると言えるのです。ようするに、人間がつくりだす「道具連関的な世界」は、人間にとって意味のある関係によって成りたっています。別のいい方をすれば、人間が「世界」に意味を与えていると言えるかも知れません。たんなる「環境」であれば、そのなかに埋没して、ただただ生きていくだけなのですが、人間は、意味の網の目を自分で創りだし、自分独自の「世界」のなかで生きています。そうなると、逆に、その創りだされた「意味」が、とても重要なものになってきます。

 現存在と無

 だから、「世界内存在」は、「意味内存在」と言いかえることもできるかもしれません。自分が創った「意味」に囲まれて存在している、というわけです。しかし、このことによって、「無」という事態も、登場することになります。「現存在」がつくりだした「意味」によって「世界」が存在しているということは、その「意味」を喪失すると、その「世界」もまた、無くなってしまうからです。「意味」という関係性は、実体的なものではありません。それは、こちら側が、創りだしているものです。だから「意味」は、「無‐意味」に変化する可能性が、つねにあるのです。ハイデガーは、つぎのように言います。

 現‐存在とは無のなかへ保たれてあることである。

 現存在は、無のなかへ保たれつつ、常にすでに全体としての存在者を超えている。この存在者から超えて存在していることを、われわれは超越と名づける。もし現存在が、その本質の根拠において超越しないならば、すなわち今、もし現存在が前もって無のなかへ保たれていないならば、現存在は決して存在者に関係することもできず、また自己自身にも関係できないであろう。(『形而上学とは何か』〔ハイデガー選集Ⅰ〕大江精志郎訳、理想社一九七四年、53頁、Was ist Metaphysik?, Vittorio Klostermann Frankfurt A.M., 2017, S.38)(訳文は、地の文との兼ね合いなどにより、変更したところもあります)

「現存在」は、無のなかになければなりません。なぜなら、「世界」を最初につくりだす(場を開く)存在だからです。だからこそ、当然のことながら、すべての存在者を超えています。すべての存在者を超えて、無のなかにいるからこそ、自分の意味の網の目を創りだすことができ、その網の目を構成する存在者と関係し、自分自身がどのような存在であるかも、「世界」を創ることによって示すことができるのです。

 「世界」という意味の網の目をつくるからこそ、その背後には、「無」がはりついているということでしょう。「世界」と「無」とは、表裏一体だということになります。「現存在」以外の他の存在者は、世界(環境)に埋没しているがゆえに、無も経験しません。「世界―無」という対概念を知ることができる位置(超越している場所)に立ってはいないからです。超越している「現存在」だけが、超越しているがゆえに、「無」を経験する可能性があるということなのです。「存在」と「無」の二項対立を、外側から見ている(つまり「無のなかへ保たれている」)からです。

 ハイデガーは、さらにつぎのようにも言います。

無は、人間的現存在にとって、存在者がそのものとして現れることを可能にする。無が、初めて存在者への対立概念をもたらすのでなく、むしろ根源的に存在者の本質そのものに属しているのである。存在者の存在のなかで無の無化が生起するのである。(同書、54頁、S.38)

 これは、何を言っているのでしょうか。「無」だからこそ、「存在者」も現れる。「無」だからこそ、「現存在」が、自分の意味を存在者に刻印して、意味の網の目をつくりだす可能性がある。つまり、「存在者」が、「現存在」によって現れる(「世界」が開かれる)ためには、その本質に「意味―無意味」の対概念をすでにもっていなければならないということになります。「存在者」は、「現存在」が、自分自身の世界のために意味を充填(じゅうてん)できる構造になっていなければならない。それを、ハイデガーは、「無の無化」(das Nichten des Nichts)と言っているのだと思います。

  私の前にある万年筆(ちなみにペリカンのスーベレーン800)は、わたしにとって「万年筆として」存在しています。私にとって、とても大切な「意味」のある「存在者」です。もし、この万年筆が、何らかの理由で(紛失、損傷など)、私にとって何の意味も持たなくなったとき、それは、私にとって「残念だけど使えないもの」になります。「万年筆として」ではなく、「使えないものとして」存在する「存在者」になります。ただ、それでも、まだ「使えないものとして」存在しているとすれば、私の意味連関のなかに入っていると言えるでしょう。

 この「存在者」が、私にとってまったく意味のないものになったとき、それは、私には、ある意味で認識できないものとなるでしょう。「~として」という言い方で呼ぶことができなくなるからです。何とも言えない、「何でもないもの」(ただし、「何でもないものとして」も見ることもできないもの)になるのです。これが、ハイデガーがここで言っている「無」だと思います。

 そして、そのような「何でもないものとしても見ることができないもの」になりつづけないと、「存在者」は、「現存在」の意味のある世界に登場する対象にはならないというわけです。つまり、「無の無化」(何でもないものとしても見ることができないものになる)が起きていないと、「現存在」が意味を充填することができないので、「存在者」は、「現存在」の対象にはならないというわけでしょう。

 すみません! ハイデガーの御専門の方々には、怒られそうな、かなりの暴走でしたが、これが、私が考えるハイデガーの「無」の概念です。この「無」を、次回は、西田幾多郎先生の「無」に比べてみたいと思います。