存在と無

 ハイデガーが、どのようなことを考えていたのか、私なりの角度から(かなり斜めから)説明してみましょう。まず「存在と無」という概念を手がかりに始めてみます。

 私たちは、存在に満ちあふれたこの世界に生きています。どこをさがしても、「存在者・存在物」が存在しています。「存在者・存在物」のない場所は、どこにもありません。街中を歩いていて、ぽっかり穴が開いていて、そこには何もない。その穴に入ったとたんに「無」になってしまう、などということは通常はありません(多分)。どんな穴でも、そこには空気がありますし、チリや微粒子が飛び交っているのですから。どんな深海だろうと、どれほど遠い大気圏外だろうと、何らかのモノが満ちみちているのです。がんばって探しまわっても、どこにも、「無」そのものは登場しません。ハイデガーの単語を借りれば、この世界には、「存在者」(Seiendes)が、満ちているということになるでしょう。この世界は、隙間なく「存在者」が覆っている場所だということになります。

 そんな世界に、生まれてからずっと生活しているのに、なぜ、哲学者という人種は、「無ではなく、なぜ存在者が存在してるのか?」などという面倒くさい問を口にだすのでしょうか。だって、そもそも「無」にであったことなんか一度もないんですから、この問がでてくること自体、おかしいのではないでしょうか。「無ではなく」なんて、思いついたり、言ったりできないはずではないでしょうか。ところが、完全な「無」は、存在しませんが、「無」と言えるような事態は、しばしばこの世界でも起きるのです。

 たとえば、いつも玄関の靴箱の上においていた部屋の鍵が見つからない。でかけなければならないのに、困った、というとき。つまり「部屋の鍵が無い」とき。あるいは、土曜日の午後7時から、毎週やっていたアベマの将棋番組が、今週から「無い」とき。あるいは、いつもはあるのに、先生が休講にしたから、今週の授業が「無い」とき。普段からわたしたちは、このような事態にでくわすと、「無い」という言葉を使いますし、「無い」ということがどういうことなのかを理解はできます。つまり、この「無い」という言葉(日本語だと形容詞、動詞につけば助動詞)を私たちがもっているので、普段の生活に「無」が、ひょっこり顔をだしているというわけです。

 でも、この「無」は、最初に言っていた「無」とはちがうでしょう。最初に言った「無」は、「存在者・存在物」がまったく「無い」ことだからです。鍵はないけど、靴箱の上の表面はありますし、将棋番組はないけど、他の番組はやっています。靴箱全体、部屋全体、番組そのもの、ひいては世界全体が無くなったわけではありません。つまり、われわれは「無い」という語を使ってはいますが、やはり、どこにも本物の「無」(<無そのもの>)は、登場しないのです。

 ハイデガーのいう「存在者」と「存在」という語を使って言えば、「存在者」が「無い」ことはありますが、「存在」が「無い」ことは、この世界では、ありえないのです。あるいは、「存在者」のすべてが「無くなり」、したがってその結果として「存在」というあり方が、一挙に消失してしまうことは、ありえないという言い方もできるでしょう。「存在者」の「有(あ)る無(な)し」は、日ごろからわれわれが経験することですが、「存在」の「有る無し」は、絶対に経験できない出来事なのです。では、なぜ絶対に経験できない「存在」の「有る無し」について、哲学者は、つべこべ言うのでしょうか。それは、やはり、言葉のはたらきに深く関係していのではないでしょうか。

否定のはたらき

 ずっと不思議に思っていることがあります。それは、この世界に「否定」という面妖な作用があるということです。いったい、このはたらきは、なぜあるのでしょうか。そもそも、「否定」というのは、何なのでしょうか。この世界が存在で満ちあふれているように、この世界のどこをさがしても、「否定」はありません。存在、存在、存在・・・、あるいは、肯定、肯定、肯定・・・があるだけ。その存在(者)を否定している状態は、どこにも現れません。

 さきに触れましたが、「無」について言えば、完全な「無」は、どこにも見当りません。でも、不完全な(?)「無」だったら、見当らない鍵や無くなった番組や休講などによって、ときどき現れます。ところが、「否定」の方は、そういうわけにはいきません。どこにも決して最初から金輪際現れないのです。手がかりも何も一切ないということです。

 ところが、この「否定」は、決して現れないにもかかわらず、この世界の奥深くに潜んでいます。じっと一生でしゃばることなく潜んでいるのです。「否定」とは、何か考えてみましょう。私たちが何か一つの存在者(A)を考えるとき、その存在者を否定した状態(Aがない、Aではない)が、かならず一緒に潜在しています。本当に不思議ですね。Aと言うとき、「Aがない」と「Aではない」が、いわば、Aの裏面にぴったり貼りついているのです。

 ある存在者が存在しているとき、ただそれだけで満足していればいいのに、なぜかすぐに(同時に)、その存在者の否定(しかも二種類の)が同時に(変ないい方ですが、「潜在的に」)現れるのですから。これは、私たちの世界のすべての存在者の宿命のようなものだと言えるでしょう。このような否定の裏面性(随伴性)があるので、われわれは、つい「なぜ無ではなく、存在者がいるのか」と尋ねてみたくなるのかもしれません。つまり、この問は、存在者と否定との不可分離性とでもいう性質から、必然的に生じる問だということになります。

 そして、この「否定」とも、とても関係していることなのですが、この世界に「二項対立」という事態があることからも、この存在の問がでてくると言えるのではないでしょうか。「否定」の構造が「存在⇔無」だとすれば、この「二項対立」の構造は「存在⇔存在」ということになるでしょう。つまり、どうしても、この世界は、どこを見渡しても、対立がやまほどあるということです。

世界の偏り

 われわれの世界は、なぜか「片割れ」というあり方をしている「存在者」が多いと思います。もちろん、そうではない場合もあるのですが、かなりの部分、「片割れ」的なものの対立によって満たされているような気がします。一番わかりやすいのは、女性と男性。たしかに人間の関係として女性と男性という二項対立だけではないのは、よく分かりますが、それ以上の多様な関係性を生じる基盤として「女⇔男」の二項対立があるのは、たしかなことだと思います。出発点として、生物学的な性別があるのはたしかでしょう。

 あるいは、「前⇔後」。なぜ、「前」という概念があるのでしょうか。これも、いつも不思議なのですが、われわれ人間の感覚器官は、とんでもなく偏っています。眼も鼻も口も耳も手も、全部「前」を向いているからです。「前」にしか世界はないかのようです。後ろにも横にも世界は、拡がっているのに。人間が背面に対してこんなに無防備なのは、この上なく不可思議な事態です。何かあって(後ろから襲われて)からでは遅いのに・・・。

 そして「上⇔下」。重力さえなければ、こんな二項対立は、生まれなかったのでしょうが、なぜか重力という、これもまたとんでもなく不思議な力が存在し、その重力によって上下が対になり、この世界の基本的なあり方になっています。そして、いろいろな事情はあるのでしょうが、なぜか「前」と「上」の方が、「後ろ」と「下」よりも価値があるような先入見を、われわれはもっています。

 こうした二項対立と、それによる偏りが、世界のいたるところに満ちていますので、「全体」や「全部」や「まるごと」といった状態や概念が、われわれに縁遠いものとなっているのかもしれません。そして、「全体」や「全部」といったものに、私たちは、居心地の悪さを感じてしまうのかもしれません(私だけでしょうか?)。どうしても二元的に考えてしまうというわけです。このように見てくると、私たちは、知らず知らずのうちに、物事を、二つのもの(こと)の対立としてとらえる癖がついてしまっているといえるでしょう。

 この「否定」と「対立」という、この世界の核にある構造(あり方、本質)によって、「存在」と「無」という二つの対立も、自然とでてくると言っていいかも知れません。だから、ライプニッツやハイデガーが、「無ではなく、なぜ存在者がいるのか」という問いかけをしてしまうのも無理はないと思います。

 もっと、ハイデガーの『形而上学とは何か』に寄りそって話をしようと思っていたのに、またまた逸脱してしまいました。ずいぶん遠くまで来てしまいました。次回は、ぐっとハイデガーの近くに戻っていって、ハイデガーの話を続けたいと思います。もしかしたら、私は、ハイデガーのことが好きなのかもしれません。いやいや、すぐ逸脱するから、そうじゃないだろう。これもまた、二項対立でしょうか。私には、よくわかりません。