世界を描いた絵
西田幾多郎とマルクス・ガブリエルが、画家と描かれた絵という比喩で、この世界の重層的な構造を示しているといいました。そして、この構造は、無限小の方向と無限大の方向へとそれぞれ進んでいきます。ある一人の画家が描いている絵が、この世界全体を描いているのだとしたら、その絵のなかに、画家とその絵そのものも描かれていなければなりません。さらに、その描かれた絵のなかにも、再び同じ絵がなければならないので、描かれた絵は、もしそれが、世界全体を描いているのであれば、無限に世界のなかに含まれていなければならなくなります。そして、その絵はだんだんと小さくなり、絵による世界の包摂は無限に続きます。つまり、無限小へと進んでいきます。
また同時に、最初の出発点の絵と画家も、その絵と画家が存在している世界のなかの一部なので、その絵と画家が含まれた絵を描くためには、この世界全体を包摂するキャンバスが必要になります。その世界全体を描いた絵が、巨大な一幅の絵だとしたら、それを描いている画家も含めて、さらに巨大なキャンバスに絵を描かなければなりません。こうして、世界全体を描く絵は、画家と一緒にどんどん大きくなっていき、無限大へと拡大されます。
西田の場合には、このキャンバスが意識であり、こうしてすべてを包摂し続ける無限大の意識は、最終的に「絶対無の場所」へと突き抜けていきます。意識の包摂する運動を続けていくと「無限大」がでてくるので、その無限をシャットアウトするために、「存在と無という二項対立が発生する以前の場所」を要請するのです。それが、この世界全体を包摂する「絶対無の場所」です。
さらに、無限小の方は、この世界を構成している個物が、その唯一無二性の条件として、あらゆる属性を自らのなかにたたみこむ(世界を描いた絵の中に当の絵そのものが描かれる)ことによって、やはり、「絶対無の場所」へと突き抜けていきます。
「モナド」は「ひも」か?
といったような話は、何回か前にも(連載19回)したので、少し他の哲学者も登場させて説明してみましょう。まずは、ライプニッツの「モナド」と比較してみたいと思います。西田も、晩年は、ライプニッツによく言及します。なぜ、ライプニッツなのでしょうか。まずは、ライプニッツの「モナド」から説明しなければなりませんね。
ライプニッツが、「モナド」を考えついたのは、顕微鏡を初めて見て微細な世界に多くの生物がうごめいているのに驚いたからでした。われわれの肉眼では見えない世界に、微生物がたくさんいるという驚きから、「モナド」という概念が誕生したというわけです。
「モナド」は、ギリシア語のμονάς(monas)(一、一なるもの)という語からつくられました。「単一のもの」といった意味でしょうか。ライプニッツによれは、「モナド」とは、部分のない単純な「実体」と定義されます(『モナドロジー』1、『モナドロジー』は、岩波文庫の谷川多佳子・岡部英男訳を参照しました)。この「実体」というのが、またまた実に厄介な概念で、一筋縄ではいかないのですが、とりあえず、この世界の最小単位とでも考えていただいたらいいと思います。現在の物理学で言えば、さしずめ「超弦理論」における宇宙の最小単位(10の-33乗㎝)の「弦」(ひも)だと考えていただいていいかもしれません。まあ、これは、「超弦理論」が正しい理論だと証明されればの話ですが。
「実体」とは何か?
実は、西田の「絶対無の場所」の説明のなかにも「実体」という概念は潜んでいます。どこに潜んでいるかと言えば、やはり(すでにお気づきかと思いますが)個物を無限に限定していった先にある「超越的主語面」に潜んでいるのです。無限小から「絶対無の場所」に突き抜けるときの最終段階にでてくる唯一無二の主語というのが、実は「実体」なのです。この「超越的主語面」は、アリストテレスの「基体」(この世界の最小の構成要素)、つまり「主語になって述語にならないもの」の西田ヴァージョンなのですが、この「基体」をアリストテレスは、「第一実体」とも呼んでいます。ですから、ある意味で、西田の「超越的主語面」というのは、ライプニッツの「モナド」とつながっているともいえるでしょう。
さて、その「モナド」ですが、これもなかなかよくわからない概念です。私も若い頃からライプニッツが好きで、何度も『モナドロジー』を読んでいるのですが、いまだに「はい、これがモナドだよ」って、学生さんや街行く人に説明できません。おそらくしどろもどろになってしまいます。本当によくわかんないんですよ。
ライプニッツは、「モナド」を「魂」とも呼びますし(『モナドロジー』19)、「宇宙の生きた永遠の鏡」(『モナドロジー』56)とも呼びます。さっき、「超弦理論」の「弦」をイメージしてくださいって言っておきながら、「魂」とか「鏡」とか言われても困りますよね。私も、ずっとそんな感じなのです。「モナド」のわからなさに、みなさんを引きずり込んでいきましょう。とりあえず、ライプニッツのいうことを聞いてみましょうか。
「モナド」は、最初に引用したように、部分のない単純な「実体」なのですが、この「実体」は、実は、宇宙全体を自らのうちにたたみこんでいます。「超弦」なのに?そうなんです。最小単位なのに、そのなかに全宇宙が入り込んでいるのです。ライプニッツによれば、「モナド」は、永遠の鏡として宇宙全体を映しこんでいるのです。
「永遠の鏡」
まあ、ようするに(?)、宇宙の最も小さい部分なのに、それがなんだか不思議な鏡でできていて、よく覗き込んでみると(小さいので、見るのも大変かもしれませんが)、その鏡には、全宇宙が映りこんでいるというわけです、万華鏡のように。そんなことが可能か、どうか、などと野暮なことを言ってはいけません。「モナド」は、物質的側面ももちろんもっていますが、魂でもあり、不思議な鏡でもあるのですから。それに、何といっても、西洋哲学の歴史のなかでも、最も難解な概念である「実体」なのですから。
ですから、「モナドには窓がない」(『モナドロジー』7)とライプニッツは、いいますが、この「窓がない」というのは、「窓」が必要ないから「窓がない」だけなのです。だって、「モナド」のなかに、宇宙全体が何から何まで映しこまれているのですから、それ以上何も必要ありません。ようするに、モナド自体が全部窓だと言っていいくらいなのです。全部窓の「モナド」によって、この宇宙は、できあがっているのです。もちろん、「モナド」は鏡なのですから、全宇宙同士が、反射しあっているということになるのでしょうか。
「モナド」と「絶対無の場所」
このような「モナド」と西田のいう「絶対無の場所」とは、どう関係するのでしょうか。ライプニッツが、この「モナド」でできあがっている世界を、もっとも具体的なイメージで表している節は、『モナドロジー』の67節だと、私は思います。このようないい方をしています。
67 物質の各部分は、植物が一面に生えている庭や、魚がいっぱいいる池のようなものと考えることができる。とはいえ、その植物の枝や、動物の肢体や、その体液の滴の一つ一つが、やはりそのような庭であり池なのである。
ライプニッツが、顕微鏡をのぞいて、「モナド」を思いついたというのが、とてもよくわかる節だと思います。これが、「モナド」が「宇宙の生きた永遠の鏡」ということなのです。西田が絵画の例(あるいは、鏡映構造)で説明した、この世界の無限の構造が、非常に具体的に説明されているのではないでしょうか。このような無限小に向かう過程を経て、最終的に「モナド」にいたる。そうすると、その最終的な「モナド」のなかには、いままでの過程すべてがたたみこまれている、ということになるでしょう。だからこそ、「モナド」に全宇宙が包摂されているといえることになります。
この引用では、西田の用語をつかえば、「超越的主語面」(無限小)へと向かう世界の構造と、「超越的述語面」(無限大)へと向かう構造の恣意的な結節点としての「物質の各部分」を、ここでライプニッツはとりだしているということになるでしょう。とりあえず、われわれの肉眼で把握できる「植物が一面に生えている庭」や「魚がいっぱいいる池」から出発して、無限小にも、無限大にも向かうことができる。そして、「モナド」は、そのような二つの無限を、すべて映しこんでいる「実体」だということになります。
したがって、ライプニッツの「モナド」というのは、無限がたたみこまれている鏡映構造のことを言っているのだといえるでしょう。だからこそ「宇宙の生きた永遠の鏡」という言い方もでてくるのだと思います。この世界を構成する無限の「モナド」が、それぞれ全宇宙(の無限構造)を映しこんでいるので、「窓がなく」でも、それぞれの「モナド」は、同一の宇宙を包みこんでいるということになります。つまり、それぞれが唯一無二の「実体」なのです。宇宙の構成要素が、それぞれ宇宙全部を包摂している(映している)のです。
「で、「モナド」って、結局いったい何なんですか?」って訊きたくなりますよね。私もそうです。ですので次回、さらに西田とライプニッツを比較しながら、つまり、西田の「絶対無の場所」と「モナドロジー」をきちんと比較しながら考えていきたいと思います。西田が、ライプニッツの名前をしきりにだす後期のいくつかの論文を次回はとりあげて、もうすこし説明したいと思います。
それに、マルクス・ガブリエルとの違いも説明しなければなりません。今回は、マルクス・ガブリエルの話で終わるつもりだったのですが、いつのまにか、ライプニッツが横から入り込んできました。いつものことなのですが、自分でコントロールできません。もちろん理由は、わかりません。