井上忠という人
たしか大学一年の頃でした。その頃は、新宿区の夏目坂を登りきったあたりに住んでいました。土方巽のところで、暗黒舞踏家を目指していた頃です。和菓子屋さんの二階のアパートにあった私の部屋に、他の大学に入った高校時代の友人がやってきて、私に一冊の本をくれました。大学の一般教育の「哲学」という授業の教科書でした。その授業がめっぽう面白いらしく、私にも読んでみたらというのです。担当の先生が編者をしていて文章も書いているらしいのです。
その先生は、井上忠という名前で、その本は、『哲学』(弘文堂入門双書)という本でした。友人が帰った後で、どれどれと読んでみると、たしかに冒頭の井上さんの文章は、とてつもなく面白く一気に読了しました。私好みの熱のある(かなり高温の)文体です。タイトルは、ずばり「哲学とは何か?」。今回は、このイノチュー先生の文章を参考にして、哲学について、例によってダラダラと考えてみたいと思います。
この文章は、二つの部分に分かれています。最初は、「哲学は思想ではない」というものです。これは、当時読んだとき、「なるほど!」と膝を打ち、深く共感しました。ずっと疑問に思っていた(というか、もやもやしていた)ことを、実にわかりやすく解明してくれたからです。
話好きのおじさん
それは、こういう疑問でした。高校生や二〇歳前後だとよく経験することですが(私だけだろうか?)、年上の「おじさん」につかまることがあります。酒席やいろいろなところで、お話を聞かざるをえないという状況に追い込まれるのです。それらの「おじさん」という種族は、とても真面目な人たちで、けっして悪い人ではありません。会社では、それなりの地位についていたりします。本当に立派で素晴らしい人たちなのです。ただ、欠点を言えば、若い人たちを見つけると、にこやかに話しかけてくるということでしょうか。ですから、「話好きのおじさん」という命名をした方が、より正確かもしれません。
その「話好きのおじさん」たちは、自分が日頃から考えていることを、こちらにたくさん話してくれます。ときどき面白い話もあるので、油断ができません。じっと聞いていて、こちらも合いの手をさしはさまなければと思い、つい気が緩んで「実は私は、哲学の本なんかも読んでいるんですよ」などと余計なことを言おうものなら、がぜん元気がでてくる次第です。そういう「おじさん」も結構いました。そこから、その「話好きのおじさん」の考える「哲学」について、とうとうと語りだすという事態が出来(しゅったい)いたします。「おじさん」の独壇場(ステージ)が始まるというわけです。
おじさんの誤解
たしかに話はわりと面白いし参考になることもあるので、とくにこの事態に問題はないのですが(ときどきうんざりはしますが)、ただ、いつも話を聞きながら、どうしても払拭できない違和感を覚えていました。「話好きのおじさん」のライブを何度も経験すると、何やらもやもやしてしまっていたのです。この「もやもや」の正体を、井上忠さんは、はっきりと示してくれたというわけです。
私の違和感は、彼らが使う「哲学」という単語に由来するものでした。私自身がもっている「哲学」という語の意味とずいぶん異なっているように思えたのです。「哲学って、そんなことじゃないんだけどなぁ~」と、口にはださないでずっと思っていたのです。でも、それが、どう違うのか、うまく言葉になりません。そう思っていた二〇歳の私に向かって、イノチュー先生は、つぎのように断言します。
哲学と思想は天と地ほど違う(2頁)
おう!これです。これこれ。本当に「溜飲が下がる」?いやいや、「胸のつかえが下りる」?ちょっと違うか。ようするに、何もかもがすっきりしました。「答」が、突然目の前にボンと現れた感じです。これが、違和感の正体でした。
そうなんです。「おじさん」たちの考えていた「哲学」は、ほぼ100%「思想」のことだったのです。他の言い方をすれば、その「哲学」は、「生き方」であったり、「信念」であったり、「経験から導かれた人の道」だったりしたのです。たしかに、それはそれで面白いし、ときに為になったりもしますが、すくなくとも、それは、「哲学」ではない。そういった事柄(「人生観」や「世界観」や「人の道」)を表すのであれば、それは、「思想」という語を使うべきだったのです。本当に、この井上忠さんの「天地の違い命題」には、目が開かれました。心から感謝しています。
私たちは、いろいろな経験をし、その経験をもとにして、人生や世界についてその人独自の考えを身につけます。そうして、苦労しながらこの世界で生きていくのです。だから、経験を積めば積むほど、そしてその経験が成功すればするほど、その経験の蓄積を肯定し、それに依拠し、人生についての信念が堅固なものになる。それを、つい「哲学」と呼んでしまっていたわけです、「話好きのおじさん」たちは。
しかし、それは「思想」なのです。それぞれの人間の生きる方策であり、生きるための拠り所だとも言えるものだからです。たしかに、これは、万人に必要なものです。言葉にはできないけれども、誰でももっているものだと思います。でも、これは、「哲学」ではない。
では、「哲学」とは何でしょうか?
哲学とは何か?
井上先生は、この文章の二番目の部分で、この問に正面から向かいます。まず「哲学とは何か?」という問が、「経済学とは何か?」や「物理学とは何か?」といった問とは、本質的に異なると言います。哲学以外の学問の場合には、この問と、その問に対する答が成立する事実の地平が存在しているというのです。つまり、哲学以外であれば、「~とは何か?」という問に対して、きちんと事実的に答えることができるというわけです。ところが、哲学だけは違う。どうちがうのか、熱のこもったイノチュー節を堪能しましょう。(以下のブツギリレイアウトも井上先生が書かれているとおりです)
「哲学とは何か?」
との問いを
「哲学とは、<何か?>」
なのであると読めばよい。哲学とはまさに端的な疑問、「何か?」が、その無条件な問い迫りをもってわれわれに立ち現われてくる現場そのものなのである。(12頁)
すごいですね。「哲学とは何か?」という問は、他の学問分野の問とは異なり、問の切っ先の<何か?>が、ロケットの先端部だけ発射していくように、発射台の「哲学とは」から切り離されて、われわれに直接迫ってくるというわけです。井上さんによれば、哲学だけが、<何か?>だけ猛スピードで飛びだして、「これはいったい何だ?」という問を、それを発した自分自身に突きつけるというのです。
なるほど。これも、とても納得がいきます。私がぼんやりと考えていた「哲学」という概念を、はっきりと言語化したものだと言ってもいいかもしれません。
なぜ、そう言えるのか。改めて、私自身の「哲学という病」について振り返ってみましょう。発病は、けっこう小さい頃でした。幼稚園に入る前かも知れません。とにかく、自分自身の存在、この世界の存在、宇宙の存在、これらは「いったい何なのだ?」という疑問にとりつかれました。そして、これらの存在は、<私の死>によって、一瞬のうちに消滅します。この消滅も「いったい何なのだ?」と思っていました。
われわれは、かならず死ぬのに、世界や宇宙は存在している。かならず死ぬのに、われわれは苦労して生きていかなければならない。「これはいったい何だ?」というわけです。
この病気は慢性化し、高校二年くらいまで続きました。夜などに一人になると、ときどき症状がでます。精神が重くなり、汗がダラダラでてきて、苦しくなるのです。「これはいったい何だ?」という声が聞こえてきて、(あらゆる意味で)「一歩も進めなく」なるのです。この世界の意味が、そして自分が生きている意味が、さっぱりわからないのですから、「一歩も進めない」のです。当りまえのことじゃないでしょうか?
このような私自身の「哲学病」の由来も、イノチュー先生は、みごとに解きあかしてくれたのです。凄い先生です。