どんな言語でも、それは「誰のものでもあり、誰のものでもない」ものだと前回説明しました。自分自身の母語だと考えている言語でも、それが言語であるかぎり、「他者」の言葉なのだというわけです。「母語」の背後には、どこまでさかのぼっても、本当の母親はいないということになります。
でも、この言語の特徴は、その成り立ちだけではなく、実際の言語使用の現場でも現れています。そのことを、今回は、まずは考えてみたいと思います。
「鉛筆」は何を意味しているのか
私たちは、日々言葉を使って生活しています。自分の考えや気持ちを言葉で表現し、相手に伝えようとします。そして、意志疎通が円滑におこなわれていると思っています。
この連載だって、皆さんに、私の書く文章の意味が伝わっていると思って、毎回私は、無い知恵を絞って書いているのです。でも、本当に私の言わんとしていることは伝わっているのでしょうか。それは、とても難しい問題です。私の書く文章の内容は、もちろん不問に付して(!)、そもそも、意味が伝わるというのは、どういうことなのでしょうか。
この問題には、「誰のものでもあり、誰のものでもない」という言葉の本質が深くかかわっていると思います。それは、どういうことでしょうか。
たとえば「鉛筆」という語を考えてみましょう。「鉛筆」という名詞は、私の目の前にある<この鉛筆>(唯一無二の<これ>=<三菱ユニスターHB>)だけを指しているわけではありません。もちろん、会話のなかで、「その鉛筆をとって!」と相手に言って、そこにこの<三菱ユニスターHB>しかなければ、「その鉛筆」という語は、<それ>のことだとわかり、話は通じるでしょう。
でも、それは、そのとき通じただけであって、「鉛筆」という単語が、<その鉛筆>だけを「意味している」ということではありません。「鉛筆」という語は、あえていえば、歴史上存在していたすべての鉛筆、未来永劫存在するであろう鉛筆、現時点で地球上に存在しているあらゆる鉛筆のことを「意味している」のです。だから、「鉛筆」という語は、「あらゆる鉛筆を指しているが、しかし、それぞれの個物の鉛筆を指しているものではない」ものなのです。
「鉛筆」は、言葉のなかでも、最もわかりやすい名詞という品詞です。しかも、そのなかでも最もわかりやすい具体的な(対応していると思われるものを知覚できる)名詞です。他の種類の語(抽象的な名詞、動詞、形容詞、助詞、助動詞など)が、どうなっているのか、ちょっと想像を絶しますが、まあ、いずれの品詞も「誰のものでもあり、誰のものでもない」(「すべてのものを指し、いずれのものも指さない」)という性質をもっているのは、たしかだと思います。
つまり、言葉は、どの品詞であっても(あるいは、文章に拡大してもいいかもしれませんが)、「誰のものでもあり、誰のものでもない」(「すべてのものであり、いずれのものでもない」)ものなのです。つまり、言葉というのは、われわれが生きているこの現実に対して、根本的に「他者」的なものなのです。その出自も「他者」的なもの(母語という「他者」)であり、現在のかかわり方も「他者」的(現実と乖離している言語という「他者」)なのです。
したがって、この連載で、私がどんなにいろいろなことを考えていたとしても、それが言葉(文章)になると、それは、「誰のものでもあり、誰のものでもない」ものになりますので、私の思考は、私の思考ではなく、「誰のものでもあり、誰のものでもない」思考になってしまいます。言語という「他者」になるというわけです。でも、このあたりのことを考えだすと、また異なった多くの問題が噴出しますので、とりあえず、このあたりで、この件はおしまいにしたいと思います。なかなか和辻の「日本語と哲学の問題」の話になりませんので、前回のつづきに、そろそろ戻りたいというわけです。
「もの」と「こと」の包摂力
さて、和辻は、日本語の「もの」と「こと」という語を実に丁寧に考えていきます。和辻の文章を引用しましょう。
一般に主観に対立するものとしての対象を現わす語は、本来の日本語には存しない。「もの」は客観としての「物」を現わし得るとともにまた主観としての「者」をも意味し得る。(『和辻哲郎全集』第四巻、521頁)
日本語の「もの」が「物」であると同時に「者」でもあることを指摘しているところです。このことによって、「知る」という動詞による、知る主体と知られる対象との分離が、日本語ではなかなか難しくなってしまうといった話になるのですが、それは、いずれ触れることにして、今回は、「もの」という語のもつ驚くべき包摂能力に着目したいと思います。
「もの」は、どんな「もの」でも「意味」(指し示)します。さきほどの「鉛筆」ももちろん「もの」ですが、それだけではありません。辞書をひけば、「もの」のつく言い方は、どんどんでてきます。いくつか、列挙してみましょう。
「もの思いにふける」「ものを言う」「ものは試し」「ものともしない」「ものにする」「ものにつかれる」「もののけ」「ものになる」「ものは相談」「時代もの」「冷や汗もの」などなど。物体も思考も怪異も目標も、何もかも「もの」で表現できそうです。しかも、この「もの」は、「物」でもあり、「者」でもあるのです。物質も人間も、それにかかわるあらゆるものも「もの」なのです。とんでもない包摂範囲です。
さて、「こと」はどうでしょうか。こちらの方も、とてつもない包摂力をもっています。以前この連載で、「こと」を、ハイデガーが「存在論的差異」というときの「存在」の方に当たると言いました(木村敏さんを引用して)。仮にそう考えてよいなら、「こと」は、まさに、すべての「存在者」を、異なる次元から包摂する「存在」のことだといえるでしょう。
和辻は、まず、もっと具体的な観点から、日本語の「こと」という語は、大きく三つの意味をもつといいます。
一は「動くこと」「見ること」というごとく動詞と結合してある動作を現わし、あるいは「静かなること」「美しきこと」というごとく形容詞と結合してある状態を現わすと言い慣わされている方面である。二は「変わったことが起こった」「何かことがあれば」というごとくある出来事を、従って歴史的事件を現わすと言われる方面である。さらに三は「あることを言う」あるいは「考える」というごとく「言われ考えられること」を現わす方面である。(同書、525頁)
まとめると、①動作や状態、②出来事、そして③発言や思考の内容などが、「こと」という言い方とかかわると和辻は言っているわけです。ただ「方面」という言い方で、「こと」という語が、動作、状態、出来事、発言・思考内容と一致しているわけではないということを示唆しています。なぜなら、ここから和辻の分析は、「こと」のもつ、ある意味で枠組的な(「存在者」を包摂する「存在」のような)性質を抽出していくからです。
実際、「こと」にも、辞書を開くと、「もの」にも負けないくらい、つぎのようなさまざまな言い方や意味があります。
「ことが起こる」「こととする」「ことなきを得る」「ことによると」「こともあろうに」「こともなげに」「こと欠いて」「驚いたことに」「昼寝をすることにしている」など、多様です。いろいろな「こと」がでてきます。そして、「もの」が、「物」であり、「者」であったように、「こと」は、「事」であり、「言」でもあります。ここから、「もの」と同じように、「こと」にも、大きな含みと問題が潜んでいることがわかるのではないでしょうか。
「言語内言語」
「もの」と「こと」にかんする分析は、次回からすることにして、今回は、この「もの」と「こと」という語が、言語そのものの性質と、ひじょうに似ているということを指摘しておしまいにしたいと思います。もうお気づきかと思いますが、言語のもつ「誰のものでもあり、誰のものでもない」、あるいは「すべてのものであり、いずれのものでもない」という本質を、言葉(日本語)のなかの無数の語のなかで、その意味として最もはっきり体現しているのが、「もの」と「こと」という語だと言えるでしょう。
ある意味で、「もの」と「こと」という語は、「言語内言語」のようなあり方をしていると言えるでしょう。日本語という言語体系のなかで、その内部の構成要素(日本語の語彙の一つ)でありながら、その外枠全体の言語そのものの性質をも、そのまま表しているのが、「もの」と「こと」という語だということになります。部分集合(「もの」「こと」)なのに、そこに全体集合(日本語全体)がたたみこまれているような関係があるのではないかということです。
次回は、そういう「もの」と「こと」について、さらに考えたいと思います。