完全な<それ>
われわれは、なぜか、かならず偏ったあり方をしている、と言いました。性別も、前後も、上下も、何もかも、二項対立の一方だけに、私たちは存在しているのです。男性で、前を向いて、直立している私というわけです。両性具有で、全方向を向いて、上下のない私ではないのです。どこからどう見ても、完全ではありせん。不完全で欠如した偏りは、ほんの少しも見いだせないというあり方では、まったくないのです。そんな完全なあり方とは、もっとも遠いのが、われわれだと言えるでしょう。この世界の存在は、どうしても、片面だけの偏った存在なのです。
この「偏り」と関係あるのかどうかわかりませんが、トマス・ネーゲルが『どこでもないところからの眺め』などで問題にしている「偏り」(と言えるかどうか難しいですが)もあるかもしれません。つまり、私たちは、主観と客観という二つのあり方に分裂しているということです。
私は、一生いつでもワンルームマンション(<私>=主観的自己)だけにいつづけています。とても偏った<ここ>にいることしかできません。<ここ>から脱けだすのは、原理的に不可能です。それなのに、不思議なことに、ワンルームマンション以外の世界も俯瞰することができる(客観的自己)というわけです。この二つのあり方(それぞれの「偏り」)をどう調停するか、というのが大きな問題だと、ネーゲルは言うのです。われわれは、「どこでもない(「ワンルームマンション」でも「ワンルームマンション以外」でもない)ところからの眺め」を手にすることができるのだろうか、という問題です。これもまた、次元の異なるふたつの「自己」という「偏り」をどう調整するのか、ということになると思うのですが、でも、これは違う問題かもしれません。
閑話休題。このような「偏り」は、「存在そのもの」についても同じことが言えるでしょう。こういうことです。私たちは、誰でも「存在」しています。だからこそ、あれこれと意思の疎通ができますし、机やパソコンや万年筆が目の前にあることを認識したり、他人の身体を見て自分自身の身体の動きをたしかめることもできます。本を読めば、宇宙の歴史をたしかめることができるし、地球上のさまざまな国には、多くの人たちが生活していることも事実として知ることができます。つまり、何から何まで、この世界では、<存在している>というわけです。
繰りかえしになりますが、「存在」という概念と対立する「無」は、この世界にはありません。存在が満ちみちている世界です。ということは、この世界は、存在に偏ったところということになるでしょう。「存在だけの世界」だからです。もし、この世界が、完全で偏りのない世界なのであれば、「存在」と「無」が同時に融合しているのでなければなりません。でも、それでは、もはや「存在」という言葉は使えなくなるでしょう。「存在」と「無」という二項対立が、対立のまま完全に調和しているのでなければならないからです。「存在」でも「無」でもない完全な<それ>が、その世界だということになるでしょう。この完全な<それ>を、頭の片隅において、今回のお話をしていきたいと思います。
無の否定
ベルクソンは、『創造的進化』のなかで、「無」という概念を徹底して批判します。この世界に、絶対的な無などは登場しないというのです。この批判は、今までの話から、容易にでてくると思います。つまり、私たちが、「無」を考えるとき、かならず「存在」を否定しているからです。この世界には、存在しかないのですから、その存在(存在者・物)を否定することによってしか「無」は登場しないはずです。これは、もう何度も確認したので、おわかりだと思いますが、この世界で「無」という概念を登場させるためには、「存在」というボールを、遠くへ飛ばして消滅させなければならないのです。
ということはつまり、「存在」というボールをどこかへ飛ばした瞬間だけ(インパクトの瞬間だけ)、「無」が現れるというわけです。ボールが飛んでいってしまうと、そのあとには、ボールが置いてあった場所が「存在」してしまうからです。ボールもどこか中空を飛んでいて、消えたわけではありません。ようするに「存在」そのものが消えたわけではないのです。だから、「ボールが存在し、かつ同時に飛ぶ」という「矛盾」(インパクトの瞬間)だけが、ごく瞬間的に「ボールが消える」(無)という事態を現出させるのです(うまい説明にはなっていませんが、何となく感じはつかめると思います)。
でも、もちろん、これは錯覚なので(矛盾が、この世界に登場することはありませんから)、ベルクソンは、絶対に「無」などというものは、この世界には存在しないというのです。「無」というものがあるとしても、それは存在をそのつど否定しているだけである。つまりは、インパクトの瞬間だけの錯覚というわけです。したがってベルクソンによれば、「絶対無」(絶対に無だけの状態)などというものは、言葉だけのもの(具体的にはありえないもの)だということになります。それはそうでしょう。さすがベルクソン。とても説得力があります。
「場所」
突然ですが、それでは、西田幾多郎の「絶対無」という概念は、どうなるのでしょう。西田哲学の<肝>といってもいい概念です(これから、おいおい説明します)。これもまた、ベルクソンの言うように、ただの言葉であり、しかも無意味な言葉なのでしょうか。いやいや困りました。西田哲学という大伽藍が、ガラガラと崩れ去っていく音が、聞こえるかのようです。ハイデガーという伽藍の崩壊を目指して話をしているつもりが(嘘)、西田を瓦解させるとは!変な迷路に迷い込んでしまいました。まあ、もう少し続けてみましょう。
西田幾多郎という人は面白い人で、「どんなものでも存在しているということは、場所に存在しているのだ」という素朴な前提から、全宇宙を説明しようとしました。たしかに、何でも場所にありますよね。私も、自分ちにいますし、皆さんだって、どこか場所にいると思います。場所にいない存在(者・物)は、それこそ存在しないでしょう。鉛筆も、プールも、地球も、雑誌も、太平洋も、M78星雲も、ぜんぶ「どこか」(場所)にあります。ここから、西田は、話を始めます。
まずは、いろいろなものが存在しているこの世界があります。われわれも存在している<この場所>です。これを西田は、「物理的世界」といいます。そしてその世界が存在するのが「物理的場所」だということになるでしょう。「なんでもかんでも場所に存在している」と言うとき、いちばん例としてわかりやすい場所だということになるでしょう。
さらに西田は、その物理的世界を見ている自分自身を「場所」と考えます。「意識」という「場所」です。この段階の「場所」を説明するためには、カントの認識論的転回や、フッサールの「世界地平」といった概念を経由しなければならないのでしょうが、それはまたそのうちに、ということで、話を進めたいと思います。
ようするに、われわれが世界を見る(認識する・意識する)ときに、その背景になっている場所があるというわけです。不思議なことに私たちは、いつも私自身から出発して、世界に対峙しています。さっきのネーゲルの話のときの「ワンルームマンション」に閉じ込められているというわけです。でも、この「ワンルームマンション」は、変な「場所」で、間取りはとても狭いのですが、世界全体をそのなかに包み込むことができます。私という「場所」は、ビッグバン以来の宇宙史、世界の生物多様性、地球の大陸や大洋、全人類などをすべて「意識」できるからです。この「場所」が、「物理的な場所」を包摂していると西田は言うのです。
そして、さらにその外側に「絶対無の場所」が「存在」(?)しているのです。やっと「絶対無」にたどり着きました。ホッとしてます。ただ、ハイデガーの話なのに、なかなか迷路から脱けだせないので、今回は、このくらいにして、次回こそ、西田の「絶対無の場所」を経由して、ハイデガーの「無」へたどり着き、ハイデッゲル先生と正面から対峙したいと思います(あくまでも、予定です)。
でも、その前に西田の「場所」とマルクス・ガブリエルの「世界」とを比較したいとも思っているので、どうなるかわかりません。すみません!