「もはやないことの痛切な認識」
さらに「こと」と「もの」について考えていきましょう。この話題を導入したときに、少し触れた長谷川三千子さんの『日本語の哲学へ』(ちくま新書、2010年)という本に、今回は焦点を当ててみたいと思います。この本のなかで、長谷川は、大野晋、荒木博之の「こと」と「もの」についての考えを次のようにまとめます。
表現の仕方は多少ちがっているものの、二人とも(大野、荒木のことです―中村註)、結論として語っていることはほとんど同じと言ってよい。これをあらためて図式化してまとめれば、「もの」は「確実で動かしがたい」「恒常不変の原理」をあらわし、「こと」は「時間的に推移」する「非原理的・一回的」な事象をあらわす。これが「もの」と「こと」の意味の根幹だ、ということになるのである。(157~158頁)
こうした二人の結論を充分認めながらも、長谷川は、つぎのような別の観点も示します。
たとえば、昔住んでいた家の近くを訪れて、「そうそう、この公園でよくカンけりをして遊んだものだ」などと言う。このときの「もの」は、いったいどんな意味をあらわしているのだろうか?
このように言うとき、この人がこの公園でカンけりをして遊んだことは、たしかに「確実な事実」としてとらえられており、しかも、それが一度きりのことではなく、何度もくり返された「恒常的な事実」だったことも表現されている。もし一、二度しかなかったことならば、「この公園でカンけりをしたことがある」という言い方になるはずである。(中略)「この公園でよくカンけりをして遊んだものだ」と言うときに、その人の目は、単にその「カンけりをして遊んだ」ことを見ているのではない。その過去の事実を、今の自分とをへだてている、長い時間のへだたりを見ているのである。「ものだ」のうちには、それがもはやないことの痛切な認識が含まれている。(160頁)
なるほど。これは、とても面白い指摘だと思います。「もはやないことの痛切な認識」が「もの」という言いかたにはあるというのです。私が前に書いた「諦めのような気持ち」とも通じるような気もします。「この公園ではよくカンけりをして遊んだことがある」というと、「カンけり遊び」に対する懐かしさのような感情(というよりも、「カンけり遊びをした過去の一事実に対する懐かしさ」)がこめられているような気がしますが、それに対して「カンけりをして遊んだものだ」というと、それが「もはやないことの痛切な認識」とまでいえるかどうかは別として、懐かしさをも含みつつ、それとは明らかに異なる、当時の「カンけり遊び」に対するより深い感情がにじんでくるような気がします。何度もくり返された事実(「カンけり遊び」)に対する複雑な感情です。
「もの」のもつ否定性
そして、さらに長谷川は、終助詞として使われる「もの」と「こと」との違いに着目して、つぎのような論を展開します。
終助詞の「もの」は、単になんらかの「原理に依拠して」自らの行動を説明するのではない。そこになんらかの否定性—反撥やうらみや口惜しさ―をただよわせつつ、それを説明するのである。(162頁)
「もの」という終助詞には、「なんらかの否定性」がただよっているというわけです。長谷川がだした例で言えば、「だってうまく教えてくれないんだもの」とは言うが、「うまく教えてくれたんだもの」とは言わないというわけです。たしかにそうかもしれません。否定的なニュアンスが、「もの」にはこもっているのかもしれません。
さらに万葉集を引用して、<無のかげ>という語で、「もの」という語につきまとう意味を説明します。
こうして見てくると、「もの」という語に<無のかげ>がつきまとう、などという遠慮がちな言い方ではなくて、「もの」という語は端的に無の原理をそれとしてさし示す語だ、と言いたくなるほどである。(164頁)
ここまで言えるかどうかは、私には、確信はもてませんが、「もの」という語のもつ否定性というのは、その通りだと思いますし、その否定性が、私が「もの」という語に感じる「諦めの気持ち」にも通じているのは、たしかだと思います。
長谷川は、さらにこの<無のかげ>は、「もの」という語が最初からもっていた本質的な特徴だという方向に論を進めます。
しかし、考えてみると、「もの」という言葉につきまとう<無のかげ>は、どこか他所からやってきてこの言葉にまとわりついたのではない。それは、まさに「もの」という言葉が物体をあらわすようになった、その瞬間から、この言葉と切りはなしがたくむすびついたものなのである。(174~175頁)
「もの」という語が、具体的なさまざまな「物」を表すときから、すでに<無のかげ>は潜んでいたというのです。どういうことでしょうか。長谷川は、こう言います。
われわれが目の前の木を指して「木」と言うときでさえ、それは厳密に言えば本当に具体的なとらえ方とは言えない。その木のもつさまざまの具体相—ちょうど見事に紅葉したもみじで、風がふくたびに枝がゆれて、玄関先の階段に美しい葉をまきちらしている、といった様子—をすべて切り捨てて、ただブッキラボーに「木」ととらえる。それが「木」という語の意味である。(175頁)
たしかにその通りだと思います。ここで長谷川が言っているように、このはたらき(具体相を切り捨てるはたらき)は、すべての言葉がもつはたらきなのです。どんな具体的な言葉であっても(木、机、落葉、鉛筆、人間、牛、カブトムシ、台風などなど)、それがそなえているそれぞれの具体相は、ばっさり切り捨てられ、とてつもなく大きい透明な風呂敷のような状態になっているのです。それが言葉(あるいは語)の本質なのです。
そして、それら大きい透明な無数の風呂敷すべてを包むことのできるのが、「もの」というこのうえなく抽象度の高い語だと言えるでしょう。さまざまな種類の風呂敷を、まるごと包みこむ、とてつもなく大きい、そして完全に透明な風呂敷が、「もの」という語だということになります。
この事態を、長谷川は、つぎのように説明します。
「もの」という言葉の<意味の水深>は、おそろしく深い。その表面近くにおいては、「もの」は単なる「存在者」にすぎず、「単なる物体」をあらわすにすぎない。しかし、その底へともぐっていくと、「もの」はそのまま、目も鼻も口もない渾沌の姿—いまだ有と無とが分離していない領域の消息—へとつながっている。そしてわれわれ日本人は、「もの」という一語によって、その<意味の水深>のもっとも深いところから、もっとも表面に至るまでを、自由に行き来しているのである。(192頁)
「こと」と言葉
「もの」は不思議な語でした。われわれの眼の前にある個々別々の具体的な「もの」(物)を指しながら、同時に動かしがたい恒常的な原理をも意味します。さらに、この「もの」という語の深みは、<無のかげ>をも宿し、存在と無の境目にまで届いています。ありとあらゆる位相(具体から抽象まで、物から原理法則まで)を包みこみ、しかも根柢には、<無>そのものも控えているというわけです。
繰り返しになりますが、これは、まさに言語のもつ性質のことでもあります。言語は、自らは具体的なもの(口にだされる音や書かれた文字)であるにもかかわらず、具体から抽象まで、いろいろな「もの」にかかわりをもちます。「言語化」というはたらきは、言葉が生まれることにより、われわれの世界が分けられ、それぞれの言語体系によって、特定の切りとり方をされるということです。いろいろな語によって、世界は、恣意的に分節化されるというわけです。
このように考えると、「もの」という語は、言葉本来のはたらきを端的に象徴する語だと言えるかもしれません。あらゆるレベルのあらゆる種類の切りとり方を「もの」という語は、可能にするからです。
しかし、そうなると、言葉と同じ意味を含んでいる「こと」(事であり言)は、どうなのでしょうか。語のもともとの意味からすれば、こちらの方が、言語のはたらきを象徴していなければならないのではないでしょうか。
同じ疑問を、長谷川も書いています。その疑問を提示する前に長谷川は、言語そのものの特徴を、つぎのように説明します。
さらにまた、言葉というもののもう一つの特色は、それが発せられるときの状況—およそ一つとして同じものはありえない、千変万化の状況—に左右されない、ということである。たとえば、小さな女の子がまわらぬ舌で「さくら」と言っても、老人がしわがれた声で「さくら」と言っても、それは同じ「さくら」である。それどころか、声に出して「さくら」と言っても、文字で「さくら」と書いても、同じ「さくら」である。もちろん、文脈、状況に応じて、「さくら」が花のことを指したり、さくら材のことを指したり、あるいは芝居小屋での景気づけの「さくら」のことを指したり、といった相違はある。しかし、それはすべて、その大元にある、言葉としての<不変性>というものに支えられてあらわれ出てくる相違である。言葉の本質は何なのかと問われたなら、まず第一にあげるべきは、この<不変性>であろう。(216~217頁)
これは、ジャック・デリダが言語の本質としてあげた「反復可能性」(répétabilité)と「反覆可能性」(itérabilité)のこととまったく同じだと言えるでしょう(『有限責任会社』高橋哲哉、増田一夫、宮﨑裕助訳、法政大学出版局、参照)。言語は、誰が使おうと、どこにあろうと同じものであり、不変性をもったもの(それの象徴として、デリダは、écritureと言います)である。それが、言語の根本をなす特徴である。その特徴があるからこそ、言語は、多くの人が何度も何度も繰り返し使うことができるし(「反復可能性」)、そして、それぞれの人がそれぞれの状況や文脈で、その同じ言葉を使うことによって、意味が変化していく可能性(「反覆可能性」)もでてくるというものです。
デリダが言ったのと同じ言語の特徴を説明したあとで、長谷川は、以下のような疑問を提出します。
とすれば、「もの」と「こと」という二つの言葉のうちで、むしろ「もの」という言葉の方が「言葉」の意味を表す語として選ばれていても不思議はなかったはずなのである。ところが実際には、「もの」ではなしに、「こと」が「言葉」を意味する語として使われるようになった……。(217頁)
まったくその通りで、私が先ほど述べた疑問と同じものだと言えるでしょう。
この疑問の答を、長谷川は、和辻哲郎に戻って考えます。和辻の次の部分を引用しています。
人はその「したこと」を人に話すことはできる。しかし話すのは「したこと」自身ではなくして「言[こと]」においてあらわにされた「したこと」である。かくのごとく「こと」が「言[こと]」においてあらわにされ、従って人々の間に分かち合われるというところに「言[こと]」の特性が認められねばならぬ、このことはすでに「こと」の語義に、「ことごとしく」というごとくあらわに目立つという意味、あるいは「こと」(殊、異)というごとく他と異なって目立つという意味が存することとも何らかの関連を持つであろう。(『和辻哲郎全集』第四巻、岩波書店、535頁)
「こと」が「言」であり「事」であるのは、われわれが、現実の渾沌とした様相を、自分なりに分割し、「こと」として際立たせたからだというのです。連続的な世界から、その一部分を恣意的に「事」として切りとり、他の人と、その「事」を「言」として分かち合うとき、「事」と「言」が同時に成り立つということでしょう。
「こと」から「もの」への変化
そうなると、こういうことになるのでしょうか。この連続的世界を最初に切りとり分節化する際の語は、「こと」であり、これは生成変化する連続状態から、その瞬間の出来事をとりだし、「こと」(事・言)と名づけるというはたらきをする語である。そして、その「こと」が、瞬間の出来事だというだけではなく、繰り返し起こり、固定的な物(「もの」)や不変的な原理・法則になったとき、その「こと」は、「もの」という言い方へと変化する。
だから、「こと」は、空虚な箱のような印象をわれわれに(少なくとも私に)与えるが、「もの」の方は、固体的な印象を与える。「こと」と「もの」という語は、いずれも言語そのものの分節化のはたらきの根柢にあるものだが、しかし、その特徴である「一回性・刹那性」(「こと」)と「恒常性・反復性」(「もの」)という性質の違いによって、異なったはたらきをしている、ということになるのでしょうか。
長谷川も、つぎのように結論を述べています。
ここに至ってわれわれは、ようやく、日本語において「もの」と「こと」とが一組の対をなしている、ということの意味に思いいたる。大野氏や荒木氏が、「もの」は原理的、「こと」は時間的、という区別をしていたのは、あらためて評すれば、まったく不正確な区別だったのであって、本当のところは、「もの」も「こと」も、どちらも「時間的」なのである。ただ、「こと」が時の到来し出現する、その「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けているのに対して、「もの」は、出で来ったものが過ぎ去ってゆく、その後姿を眺めやっている。(中略)われわれは「もの」と「こと」という二つの語をもつことによって、この世界を、事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができるのと同時に、この世界の生成と消滅との両側面を二つながらに凝視することができるのである。(232頁)
とても納得できる結論だと私は思います。
次回は、以前にも「存在論的差異」のところで言及した、木村敏の「こと」と「もの」の区別について、少し触れてみたいと思います。