反動的夢想とはいえ歴史的には筋の通った話ではある。「テロとの戦争」の地獄と、イラク国家崩壊の空白が、そんな集団を生み出した。しかし現実には、敗残者の憎悪と狂気しかないようにみえる(ナイフと流出武器とランドクルーザー、そしてインターネット)。そのためイスラーム国は、最も危険で残虐な組織、いかなる「正統性」も与えてはならない者として、日本でもISISと略号表記されるようになる。だが、イスラーム圏随所に散らばった私設武装組織には訴えるところがあり、各地にIS(との連携)を名乗る集団が現れる。また、ヨーロッパに出没する単発「テロリスト」が、ISとの繫がりを主張することもある。

 そのため、ISはアメリカが主導する「テロとの戦争」の主要敵となり、CIAや特殊部隊の執拗な追及を受けて、2016年にはシリアにあった主要拠点を失い、年末にはカリフ・バグダディが殺害されたが、その影響力は爆破されたエーリアンの肉片が飛び散ってまた蘇生するように、各地に飛散し潜伏している。

市場「解放」としての戦争

 こうしてイラク戦争は、国際社会にとっての懸案を何ら解決せず、かえって「テロリズム」の劣悪化とその拡散を招き、中東アフリカ圏の国々の統治を混乱させ、ヨーロッパにも「テロ」の危機を恒常化させて、さらに「難民問題」を深刻化させることになったが、それでもこの戦争を強引に「演出」したアメリカの一部の指導層にとっては、十分割に合う、というより利得のある「ビジネス」だったようだ。

 『ショック・ドクトリン』を書いたカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインはアメリカ国家の実態を「コーポラティズム」と評している。いわゆるネオコン(新保守主義:「自由」の国アメリカの覇権を維持「保守」するためにその突出した軍事力を最大限活用する)とネオリベ(新自由主義:政治的介入を排して、あらゆる決定を市場の「自由」に委ねて「最適化」された世界を作る)の利益集団が、アメリカ国家を乗り物として動かしているというのである。その集団の世界改造戦略が「ショック・ドクトリン」である。

 「衝撃と恐怖」で人も社会も無力化し、そこに生じる「空白」を「自由」として規範化する。するとあらゆるものは、市場に「解放」される商品になり、私的欲望の競合から「最適化」を生み出す流れができる、という「考え」だ。ナオミ・クラインは、戦争もクーデターも体制変換も自然災害もこのドクトリン(教説)の下では同じように作用するという。だから彼らにとっては、一年間のブレマーの暫定統治がその役目を果たせばそれで十分だったのだ。

 「戦争立案者たちは世界中で用いられてきたショック戦術を研究し、そのすべてを採用した。電撃的爆撃のうえに巧妙な心理作戦を加え、その後迅速かつ徹底した政治的・経済的ショック療法をあらゆる分野に施し、抵抗する者があれば取り押さえ、手荒な『虐待』を加えるという形でバック・アップする、という戦法である。」(同書、岩波現代文庫版、下巻552ページ)

 「この国が、ベクテルやエクソン・モービルに売り払われるというのは、何も私が勝手に作り上げたシナリオではない。それは現実にアメリカ政府が大統領特使としてイラクに送り込んだ指揮下で実施され、(…)人びとが緊急事態に振り回されている間にさっさとイラクの国家資産を売り払い、後から既成事実として公表するのが彼らの手口だ。(…)イラクには奪い取れるものが山ほどあった。世界第三位の石油埋蔵量だけではない。イラクはフリードマンの放任資本主義構想を基本とするグローバル市場化の流れに最後まで抵抗した地域のひとつだった。ラテン・アメリカ、東欧、アジアを征服してきたグローバル市場推進派にとって、アラブ市場は最後のフロンティアだったのである。」(下巻542-543ページ)

 ついでに言えば、戦争初期にまずイラク社会の基礎インフラが破壊されたが、それはただちにアメリカ企業が「復興支援」として入ることになっている。

 

 考えさせられるのは、冷戦後、世界の抗争・戦争を管理する立場に立ったアメリカにとって、「戦争」とは何なのかということである。「テロとの戦争」そのものが、アメリカが打ち出し敷設したものだ。そしてそのアメリカは、古典的な戦争の主体である他の民族国家・国民国家とは、まったく違ったものに変質してしまっている。ときに「アメリカ例外主義」と言われたりするが、それだけではすまない事態が進行している。そのことを意識することなしに現代に「戦争」を考えることはできないのだ。