イラク軍の抵抗は少なかった。大空爆の前にひとたまりもないことは分かっているからである。その後地上軍の侵攻があり、掃討戦が始まったが、5月初めにはブッシュはペルシャ湾の艦艇上で「勝利宣言」を行った。この間、「バンカーバスター」や「サーモバリック」といった強力破壊兵器も使われている。

 アメリカはこの時、ラムズフェルドの意見を入れて20万規模の駐留軍を送った。占領統治のためには50万は必要という国防省の順当な考えを斥け、「衝撃と恐怖」で体制を一気に叩き潰し、民衆の抵抗の意志も無くして、その「空白」に暫定統治機構を置き、中枢を作り変えたら後は民間軍事企業や現地雇いで補うという「効率」作戦だった。

 イラク軍はたしかに大した抵抗もなく散っていったが、それはむしろゲリラ戦に移行するためだったようだ。その後米軍は各所で「抵抗」に遭い犠牲がでるようになる。そこで徹底した掃討戦に入る。つまり現地住民は潜在的に「敵」であり、民家も虱潰しに、あるいはアトランダムに襲撃して「敵」を捕獲ないし殺害する。というのも、「新秩序」に抵抗する者は「テロリスト」であり、テロリストを殲滅するための手段に制約はないからだ。

 占領統治はこうして「テロとの戦争」と重なることになる。

見せる戦争(フェイク・スペクタクル)

 夜明けのバグダッド大空襲は世界中にテレビ放映され、その後の侵攻でも米軍はエンベッド取材(編注:記者が前線部隊と行動を共にして行う取材)という形で戦車・装甲車にジャーナリストを乗せて戦場光景を配信した。まるで、9・11でメディアが「テロリスト」に乗っ取られたかのように「衝撃と恐怖」が世界に広まった、その事態を逆転するかのように、この「イラク解放戦争」は「正義のスペクタクル」として世界に配信された。

 バグダッドが陥落すると、用意されたと思しき数十人の「市民」が暴君からの解放に歓喜して巨大なフセイン像にロープをかけて引き倒す。かつてソ連崩壊のとき、周辺の各地でレーニン像が撤去されたのを思い起こさせる光景だ。混乱の中、「市民」が博物館に乱入しメソポタミア文明の豊かな遺産を収蔵した施設の物品をソファーや機器にいたるまで略奪した(文化・文明の何たるかを理解しない窮して粗暴なこのような民衆から世界文明の遺産を守るために、英仏米――それにこの地のものは独も――はすでに半世紀以上前、珠玉の品々を「確保」し、大英博物館やメトロポリタン美術館それにベルリン美術館が所蔵の豊かさを競っている)。

 ブッシュの「勝利宣言」にもかかわらず、米軍占領統治への「抵抗」は拡散して広がり、局地的な戦闘は各所でむしろ激しくなる。だが次第に追いつめられて11月にはサダム・フセインが貫通弾でこじあけられた地下基地で「捕獲」される。髪も髭も伸び放題の文字どおり憔悴した獣のような姿で。そして即決裁判で死刑を宣告され、時を置かず問答無用で絞首刑になった。それを全世界の人びとは「見た」。処刑の場面はどういうわけか画像が「流出」し、みじめな姿で抗いながら吊るされてゆく「独裁者」の姿を世界のテレビは映し出したのである。ブッシュはかつてのアメリカン・ヒーロー西部の保安官が盗賊を吊るすときのように、「奴を捕えた(We got him !)」と高らかに宣言した。「正義は果たされた」のである。

国家資産の「自由化」と「テロリスト」の掃討

 その間、ブンカー(防空施設)で囲われたバグダッド中心部の「グリーンゾーン」には破綻国家を暫定統治するために一年の任期で米国務省からポール・ブレマーが送り込まれた。任期中にイラクに新統治体制を作るというふれ込みだった。けれどもブレマーが行ったのは、フセイン体制なきあとの国家資産や外交関係の「自由化」および社会制度の「民主化」だけである。このとき、石油資産の処理権は米英メジャーに渡り、徹底的に破壊された生活・社会インフラの「民営化」も決められた。要するに「復興事業」の全体が、利権案件として主として英米の巨大私企業に委ねられたのである。それを「市場の解放」という。

 ブレマーは手早く仕事をして帰任したが、残されたイラクでは収拾のつかない混迷が続く。アメリカはフセイン体制打倒のためクルド人勢力を利用し武装させ、一時はキルクークを中心に独立さえ仄めかしたが、結局、このクルド人勢力を新イラクの軸に据えようとする。しかし、同じくフセイン体制下で弾圧され、イランに庇護を求めていたシーア派勢力が帰ってきてイラクのイスラーム化を主張、そうなると旧来の体制下の多数派はスンニ派として排除されることになる。

 そのため統治の主導権をめぐる争いが激しくなり、自由選挙が行われても政権は安定せず身動きもとれない(じつは、イギリスが国境線を引くとき、これを見越してクルド人、シーア派、スンニ派の三勢力を一括りにした――植民地の分断統治――と言われる)。そして各地で武力抗争が始まり、それが「テロ」化する。つまり公然と内戦化するのではなく、誰がやったか分からないことが疑心暗鬼を誘って不特定多数を動揺させるという無差別殺傷だ。

 攻撃はもちろん米軍に対しても行われる。イラク人にとってそれは「占領に対する抵抗」(=レジスタンス)だが、米軍にとってはその鎮圧こそが「テロとの戦争」である。やっぱりイラクは「テロリスト」だらけだ、というわけだ。だから「テロリスト」を掃討するためには街でも病院・学校でも躊躇なく破壊する。

 その最も強引な例が「ファルージャ解放」作戦だったが(2004年4月~11月)、国連のアナン事務総長が悲壮な訴えで止めさせようとしたこの非情残虐な都市殲滅を、再選を目指すブッシュjr.大統領は強行し、戦災復興の新モデルとしてハリウッド映画にしようとしたようだが、ほとぼりが冷めるとともに「事件」そのものがみごとに忘れ去られてしまった(メディアもすぐに飽きて触れなくなった)。

イスラーム国の出現

 そんな状況から、やがて「イスラーム国」を名乗る集団が現れる。イラクに広大な統治の空白地帯ができて、そこを統治すると称するイスラーム原理主義の武装勢力である。これがアルカーイダ以後のイスラーム・テロ組織と違うのは、初めて「領土主権」を主張する勢力だったということだ。元々イスラームは信仰・軍事勢力としてアラビア半島から外部に拡大していった。その時の権力形態がカリフ制(宗教首長が政治首長)である。

 イラクのスンニ派はフセイン体制を支える勢力として長く行政統治の経験があった。それが国家崩壊とともに野に投げ出され、新体制からは徹底的に締め出され、そのうえ「テロリスト狩り」に遭ってきた。アメリカ軍による捕虜虐待で有名となったアブグレイブ刑務所の経験者も少なくなかっただろう。生きて釈放されたら、精神的廃人になるか米軍への憎悪で気が狂うかしかないような、地獄の刑務所だ。

 そんなふうに「育成」された「人材」を糾合し、カリフを名乗る人物が立って、現代のイラクの荒野にイスラーム国家の復活樹立を主張する勢力が登場したのである。その妄想の国家は、西洋原理とその世界制覇の一切を否定し、十字軍以前のジブラルタル海峡再奪取、アルハンブラ再興(過去のイスラーム最大版図)までを目指す。