だから、敵を倒すつもりでみすみす世界を破滅させたら、敵ばかりでなく自分をも倒してしまったら、これは愚かな不合理である。相手もそんなバカはことはしないだろう。そのような存在合理性に対する信仰が抑止論の有効性を支えていた(1982年のキューバ危機もそれによって解消された)。ところが、あらゆるセキュリティー・システムをかいくぐって、カッターナイフ一本で、死んでも突撃、という「敵」が現れた。というより、むしろ命を捨てて(乗客も道連れに)、命と身体を道具に目標の破壊を達成するという「敵」だ。それは「自爆――自殺攻撃」と呼ばれる。

「コナトゥス」のない敵

 この「敵」は生き残ることを求めていない。むしろ命を爆弾に代えて死にに来る。キリスト教社会でもそんな価値観がないわけではなかった。というより、むしろ信仰の中核にはそんな情熱が隠れていた。「生きながら死して神と合一する」とする神秘主義である。だが、教会体制はそんな「危険」な情熱を修道院に閉じ込めて、自分たちの権威が保てる穏やかな儀礼を社会に広めていた。そのうち、その情熱は世俗国家が流用するようになり、「国家のために死ぬ」というナショナリズムの核として回収するようになる。

 けれどもその一方で、近代国家の戦争はあくまで「合理的」でなければならない。国家は負けるわけにはいかず、負ける戦争はできない。あるいは、負けそうになったら理屈をつけて交渉する。それでなければ国家も国民も存続できないから。そしてその合理性の根底には、近代社会の根幹の合理性、つまり、存在するものは存在し続けることが根本的傾向であり、あらゆる行為はそのために遂行される、それがまた善でもある、とする原理的考え方があり、それが前述した「コナトゥス」である。

 ところが、9・11では、「コナトゥスのない敵」が出現した。コナトゥスがないということは抑止論が効かないということである。命が惜しくないのだ。これがアメリカの国家的(政治的)思考を混乱させた。これでは抑止が効かない。抑止が破られた。もうこんな化け物のような「敵」は徹底的に叩き潰すしかない。それでアメリカは「テロとの戦争」という掟破りの「爆弾」、仁義なき暴力刀を世界に振り回すことになったのである。

 アメリカはこのコナトゥスをもたない「非人間的」な「敵」を知らないわけではなかった。もちろんそれは旧日本軍の「カミカゼ特攻」である。手榴弾や使い捨て機に乗って米軍めがけて突っ込んでくる。それに恐れをなした米軍は、以降、日本兵を容赦なく叩き潰すようになる。その凄惨な戦いが米軍に多くのPTSD(戦争後遺症)患者を生み出したと言われる。いわゆる自爆犯や、その後の「テロリスト」たちの攻撃が、アメリカ・メディアでは「カミカゼ」と称されたのはそのためである(日本のメディアは、「テロリスト」の本家が日本軍だったと思わせるこの呼称を嫌って、自爆攻撃とかただの「テロ攻撃」とか呼ぶようになる)。

エーリアン(世界外-非存在)の砂漠

 冷戦以降、「敵」は悪魔化されていた。そして冷戦後、「悪魔」の正体は「コナトゥスをもたない非人間」だと分かったというわけだ。誰の「敵」か? もちろん世界に普遍化したとみなされる西洋的世界、グローバル国際秩序だ。だから、世界のあらゆる国々は、この価値観や見方を共有しなければならない。それが「西側」の要請である。

 さて、人間でないとみなされたエーリアン(=テロリスト)たちを破壊し抹消する先端兵器はどこにあるのか? 問うまでもなく、それを開発するのは最大最高性能の兵器を保持しようとしその技術的かつ経済的リソースをもつアメリカである。その支援を受けて西側の特別な国々がそれに協力する(特別の最たるものがイスラエルだ)。

 すると「潜在敵」とみなされた国々、つまりそれらの兵器の潜在的な使用対象である国々は、自立を確保するためにはアメリカの軍事力に対抗できる軍事力を追及することになる。それがなければ、経済的・軍事的圧力を受けてアメリカに従順な国になるか、そうなるには大きすぎれば、狡猾な「民主化」圧力で解体され、アメリカ自由市場に呑み込まれて瓦解するしかない(アメリカにとってはいまや戦争も私権的自由の市場化の一手段でしかないことを、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で示している)。

 エーリアンには貧民たちのカラシニコフしかない(今では手作り爆弾の他、兵器市場から流出した携帯ロケット砲や、戦車がわりのランドクルーザーなども使うし、宣伝用のPCもあるが)。いずれにしても、そこにある「格差」は甚だしい。一方には宇宙基地も抱え核配備さえ進化させながら、デジタル・ヴァーチャル化でグローバル世界の富を強力に吸引しながら、先端軍事システムのイノヴェーションに余念なく、エーリアンの来襲に怯え備えるつもりの「文明世界」、他方には、その世界が潜在敵とみなしてブルドーザー(資源開発)をかけるため、つねに圧力を受け、水も涸れ、命も脆弱化して、もはやそれしか武器として残されていないカラシニコフと手投げ弾の砂漠……。

 ハイデガー以来、人間の基本的な在り方は「世界内-存在」だとされる。つまり、人はつねにすでに世界の内にいる。だが、コナトゥスのない異様な恐怖を誘う存在は? それは存在でさえない。あるいは「世界内存在」の安寧のためには存在させてはならない。それを西洋形而上学は「非存在」そして「悪」として規定してきた。

 通俗的には(ハリウッド映画などでは)それにエーリアン(地球外異物)といったイメージを与える。言いかえればそれは「世界外-非存在」なのだ。文明世界にとっての砂漠・荒廃した非-世界…(フランス語ではそれを文字どおり世界・モンドに対して非-世界、汚濁の境、イ-モンドと言う)。

「テロル(恐怖)」の正体

 もちろん中国がある。だが、その中国とは、第二次大戦後だけを考えても、西洋諸国ととりわけ「脱亜入欧」を図った近代日本の侵略で広大な国土も荒廃、その上親西側の国民党と共産党との内戦を経てやっと中華人民共和国として国の形が確定。その後は共産主義国として西側から封じ込めを受け、米英に支えられた蒋介石国民政府の台湾からの軍事圧力も受け、国土の極貧苦境の中、二千万とも言われる犠牲も出しながら国力をつけ、とうとうアメリカは台湾を諦めて毛沢東の中国を国家承認せざるをえなくなった。その間、西側は北京の中国を東西対立の「西側防衛」のため、排除し続けてきたのである。

 その後も一筋縄ではいかないが(全土共産化など)、冷戦末期から中国はアメリカのいわゆる新自由主義システムを政府主導で導入、その結果、中国はグローバル市場に組み込まれ、それによって潜在力を「開化」させて急速な経済成長を遂げ、2020年代にはGDPで世界一になるとみられている。そこで2010年代には、アメリカは中国に貿易不正の咎(とが)で経済制裁を打ち始める。だがその前に、中国はソ連ついでイスラーム地域に代わってアメリカの現実的な「敵」になり始めた。上海条約機構を組み、一帯一路政策を打ち出して、西洋化(あるいはアメリカ的「解放」)とは違う世界の連携を作りだそうとしているからだ。これがアメリカには「敵対」と映る。自分たちの掲げるグローバル市場一元化を妨げるからだ。

 だがそうだろうか?アメリカの目から見れば、「一帯一路」は中国の世界支配の野望の表れと映るかもしれない。だが世界の西洋化で周辺化されてきた諸地域にとっては、別の連携でそれぞれの自立を作り出してゆく方途になるのかもしれない。周辺化された地域には、それ以外、私権のグローバル市場化による二極化(カラシニコフの砂漠か、油田上の摩天楼=その荒廃から血を吸うヴァーチャル文明の繁栄か)を免れる道はないのだから。

 西洋文明の特徴のひとつは、他を征服同化するという自己の習性が、つねに「敵」に投影されて、「敵」を悪魔化するということだ。だから服属しない敵は根絶する、後顧の憂いなき繁栄のために。そこに「赦し」や「放擲(ほうてき)」はない。「テロル(恐怖)」はみずからの姿勢(方法)のうちにあるのだ。「テロル」とはその際限のない暴力のことである。

*現在の戦争がウェストファリア時代の国家間戦争とはまったく違ったものになっていることを衝撃的に教えてくれるのがナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』である。これについては岩波書店の『図書』4月号と7月号に論じたので参照されたい。

*また、「敵をつくる」とはフランスの戦略研究家ピエール・コネサの主著のタイトルでもある。『敵をつくる、「良心にしたがって」殺すことを可能にするもの』(島崎正樹訳、風行社、2016年)