異次元を開く核技術
核兵器は開発されてすでに80年が経つ。近代戦争に使われる兵器の進化は著しかった。マスケット銃から機関銃、ダイナマイト、大砲を備えた戦車、戦闘機・爆撃機、化学・生物兵器(毒ガス・細菌)……、十九世紀の初めから、一世紀半で(二十世紀には物理学の飛躍的進歩があり)、兵器の殺傷能力はウナギ昇りに上がり(幾何級数的にというようだ)、1945年にはついに原子爆弾が登場した。
原子爆弾は原子核破壊で生じる熱エネルギー放出をそのまま威力として使うからそう呼ばれるが(atomic bomb)、その後、核融合や中性子放出を利用する技術が開発されるに及んで、それらが核兵器(nuclear weapon)と総称されるようになる。核とは自然物質の「核」だと考えていい。
従来の爆薬は分子レベルの化学反応を利用したものだが、核兵器は次元が違う。通常、自然界とみなされる世界は分子レベルで構成されており、生物の代謝(生命現象)もそのレベルで起こっている。気象や地殻変動も基本的にはそのレベルだ(太陽熱は核融合)。分子は可変的だが、そのもとになる原子ははるかに安定的な自然界の基盤になっている。つまり、しっかりと凝集していて壊れにくいということだ。だからそれを無理に壊してやるとその結合力が解放されて膨大なエネルギーが放出される。その上、原子の崩壊過程は安定状態になるまで続き、その間は放射線を出し続けることになる。
異次元とはそのことで、もはや人間は原子核破壊の先のプロセスを制御することはできない。この技術は新たな道具を作り出すものではなく、川の流れをせき止めていた堰を切るようなものなのだ(科学はそれで開かれた次元を「量子力学の世界」とみなし、その異次元からわれわれの世界をも解釈し直している――透視したつもりになる)。
つまりこのテクノロジーは、人間世界の権力抗争である「戦争」に、自然や生命のレベルを超えたその異次元から決着をつけてしまう類いのものだ。というより、この兵器は戦場で使われれば敵味方の区別なく全面的な抹消を果たすことになる(その場を開発者たちは「グラウンド・ゼロ」と呼んだ)。だから戦場ではなく、爆撃機やミサイルによって「敵」の生存地帯に運ばれる。だが戦争が国家間の相互的行為であるなら、ほどなくこの異次元の出来(しゅったい)を逃れられる場所はなくなる。その結果、全地表を覆う宇宙空間も争奪の対象になるのだ。
「文明」のターニング・ポイント
というわけで、核兵器は人間集団間の争いを無意味化するという意味で、これ以上は要らない「究極兵器」、そして戦争そのものを不条理にする「最終兵器」なのである。
その兵器は一度使われた。それはこの種の兵器が実際に「使えない」兵器であることを使ってみて知る、つまり「実証」するための実験でもあった。人間――といっても科学者と政治家だが――はあまりに愚かで、やってみなければ結果が分らない。科学の「真理性」とはその実証で保たれているのだ。
マンハッタン計画を率いたオッペンハイマーは、その「成果」を目の当たりにして、悠久の世の実相が無数の顔をもつ燃える火の玉として姿を現すというヒンズー教の奥義(『バガバット・ギータ』)を想起して打ちのめされ、米大統領のトルーマンは逆に、「悪魔のような共産主義」の威圧に自信を深め、政治家たちの無思慮を危ぶんだ新進サイバネティクスの学者たちは、この科学技術の成果の活用を私欲や愛憎に左右される政治家の手に委ねることはできないと、使用判断を制御しうるAI(人工知能)の開発に勤しむことになる。人間の統御を超えた科学技術の「自己制御」を確立しようというわけだ。
こうして核兵器の出現は、権力や技術開発や人間社会のあり方(国際関係も含めて)の、要するに「文明」のあり方のターニング・ポイントになったのである。
「最終兵器」とその先
その後も核開発は続くが、水爆も中性子爆弾もそれが人間世界の存続と原理的に相いれない「使えない」兵器であることに変わりはなく、その「進歩」に「先」はない。
その代わりに、究極兵器の一部効果を拡大する代用兵器の開発は進んできた。あたり一帯を焼き払うナパーム弾、敵の潜む森林を枯らす枯れ葉剤(それを開発したバイオ・ケミカル会社、デュポンやモンサントがいま世界の食糧生産管理の中枢に座っている)、パイナップル弾に始まる多層飛散型のクラスター爆弾、白麟光弾、どんなブンカーをも破壊するバンカーバスター(強力貫通弾)、野球場10面ばかりを3000度の熱で吹き飛ばすサーモバリック(熱気爆弾)、等々。
もちろんそれは、ベトナムとかアフガニスタン、イラクなどに徘徊する「文明の敵」にしか使われない。もう文明世界(西洋)で戦争は起こらないとみなされているからだ。それらに大型の弾道ミサイルの破壊力を加えれば、「テロリスト」の巣窟など「石器時代に返す」(ラムズフェルド)ことができる。
さらにはサイバネティクスによって開かれたIT・AI技術によるテレ攻撃兵器やロボット兵器が出てきた。これは「情報革命」以後のものだが、これらは文字どおり戦場から「人間」を除去し(「テロリスト」は人間ではない)、戦争をほぼ機械技術にまかせることになる(一方「文明の敵」にはその力はない)。その「自律性」(殺害判断をロボットがする)が「非人間的」かどうかをめぐって国際的な議論もなされているが、敵が「テロリスト」と判断されている段階で、その議論は無意味な茶番でしかない。「テロリスト」はすでに非人間化されているのだから。
結局この技術論自体が、戦争がユニラテラル(一方的)であることを前提としている。つまり、今や戦争とは、国家間の抗争ではなく、「文明」がその繁栄のために「闇」の浸潤を掃討する戦いでしかないということだ。「文明」は征服したはずの「闇」の回帰に怯えて、その「光」をますます暴力的にしている。
「聖なるもの」の威力
「サクリファイス論」のルネ・ジラールでなくとも、人類学者ならその最終兵器に善悪を超絶した「聖なるもの」を見るだろう。それを手にした者は、その力を我がものとして全人類を睥睨(へいげい)し平服させることができる(『007』などの通俗スパイ映画が筋立てに使うように)。世界戦争明けに、アメリカは実際そのような国家となったのである。それは国際政治のうえでは「アメリカ例外主義」と言われる構えと通じている。アメリカは他と違う例外的国家であり、したがって世界の「例外状態において決定する者」(C・シュミット)なのである、と。
だがそんなアメリカの「敵国」も核兵器を開発する(いずれにせよ国家プロジェクトだ)。そうなると開発装備競争で相手を凌駕するしかない。その結果「相互確証破壊(MAD)」の均衡が生れる。やがて「敵」はそれを維持する活力を失って崩壊するだろう。それは相互の国の「総力戦」的力量比べである。そのようにして冷戦は終わり、勝者となったアメリカは、後は「敵」から拡散する核を抑えればよい。だからグローバル化の時代の主要な国際戦略は核拡散防止ということになる。それはアメリカによる独占管理体制の維持のためだ。
だが、「最強の国」は、みずからの無制約的な力そのものによって怯えることになる。安全管理が必要、不慮の暴発を防がねばならないし、またそれを「敵」に奪われないようにしなくてはいけない。あるいは「敵」が核をもつことを防がねばならない。
全能の自由を手にした強欲な独占的金持ちが、厳重な金庫の警備と予防態勢を必要とし、裏切りに怯えるのと同じである。そして侵害者(その恐れのある者)を悪魔化して蛇蝎(だかつ)のごとく嫌い、みずからの存在を脅かすものとして、その殲滅を問答無用の権利であるかの如く要求する。
「敵」を作り出す
自分がこの「聖櫃(せいひつ)」を守りかざして潜在敵を脅し続けないかぎり(これをdissuasion 抑止という)、世界の平和と秩序は守れない。だからアメリカはつねに「敵」に優る核兵器を保持し続け、他国が持とうとするのを許さない。国際社会はそれを受け入れなければならない。それが、アメリカが世界に共有させようとする核抑止体制だ。
だからアメリカは世界の多くの非核保有国が提起する核兵器廃絶の要請に背を向け、核兵器禁止条約をも認めない。「使う」ことを前提にしないと、基本的に威嚇である抑止力論は成り立たないからだ。
核抑止論とは、核の威嚇によって相手に先制攻撃を思いとどまらせること、つまりは「恐怖」を掲げてありうべき「敵」を脅すことである。これによって核兵器保有を正当化する。だが、そのためには「敵」がいなくてはならない。「敵」がいればこそ、核は戦争(衝突)抑止の手段として正当化される。
だから最強国家アメリカは「敵」を必要とする。いなければ、追い詰めてでも作り出す(経済制裁という国際的ハラスメントがそれに役に立つ)。それなしに核独占保有は正当化できないのだ(冷戦の終りの目途が立ったころ、イギリスのサッチャーが社会主義の次の敵はアラブ・イスラームだ、と名指したのは、アメリカにとって渡りに船だった。注意すべきは、このときの「敵」とは何の敵だったのかということだ。いわずと知れたアングロ・サクソンが導く西洋文明の「敵」だ。サッチャーが国内の社会主義的要素を一掃しながら「この道しかない」と言った「この道」も、西洋諸国の繁栄のための道以外ではない)。
9・11と抑止論の破綻
そのコンテクストで見直すと「9・11」とは何だったのか? アメリカがパニックに陥ったかのように世界に戒厳令(緊急事態)を布告したのは、じつはこのときの「カミカゼ」が抑止論を破ったからである。
抑止論とは簡単に言えば、オレも死にたくないが、オマエも死にたくないよな、だったら手を出すな、という脅しと抑制のゲームである(事実、アメリカの核戦略を支えたのはモルゲンシュテルン等の「ゲーム理論」だった)。前提にあるのは、あらゆる存在(人や国)は自己の存続を求める、という西洋近代の合理性のテーゼ、スピノザが古い言葉で「コナトゥス」と呼んだ原理である。「存在への固執」とか「自己保存の原理」とか言われる。つまり、在るものは在り続ける、それを求める、それが存在の基本傾向だという考え方だ。
だから人間が行為をするのも生きるためであって、死ぬためではない。それが理に適ったこと、つまり合理性の原理なのだ。自分を破壊するようなことをするのは根本的に不合理だということだ(いわゆるフランスの実存主義の時代にはその不合理=不条理が再評価されるが、それは他でもない、核兵器が登場したからだ)。