私は当時、行商人たちが数多く暮らす典型的な長屋の一部屋を借りて暮らしていました。朝起きて水浴びをすると、すぐに街の中心街に向かいます。市中心部のバス停で友人の行商人ロバートとドゥーラと落ちあい、仲卸商のところに古着を仕入れに出かけます。仲卸商から数十枚の古着を信用取引で仕入れると、アイロン職人にアイロンがけを依頼し、その出来上がりを待つ間に近くの総菜売りから揚げパンと紅茶を買って簡単な朝食を済ませます。

 その後は 、ロバートとドゥーラと仕入れた古着を眺めながら、「若者向けの服が手に入ったので、サッカースタジアムから回ろうか」などとその日の行商ルートを相談し、街に繰りだしていきます。何枚か売れたら、青空カフェで定食を食べ、運悪く売れなかったら昼食は諦めます。18時か19時ごろに商売をやめて、仲卸商に仕入れ代金を返しに行きます。儲かった日は仲間の行商人たちと近くのバーに出かけて飲み明かし、儲からなかった日は路肩のたまり場でコーヒーをちびちびすすりながら深夜までたわいもない雑談に興じていました。長屋に戻る道すがら露店で焼きトウモロコシや串肉を買って帰り、それを食べて水浴びし、フィールドノートを書いているうちに、寝落ち。毎日、その繰り返しでした。

 しかし、こうした単調な日々の繰り返しには、ノートに書くべき内容がたくさんありました。たとえば、古着の価格や売れ筋の古着、都心部と田舎の販売価格の違い、日々の売り上げやツケの相手と額、仲卸人や客との交渉術など。交渉文句はすべて記憶し、客が立ち去った後などに歩きながら一語一句書き起こしました。「今日は昼までに6枚の古着が売れた。ロバートは9日ぶりに鶏肉料理を食べることができたと喜んでいた」「ドゥーラが仲間の商人ムランギラと仕入れる古着をめぐってケンカした」などという些細な出来事も思い出せるかぎり書き出していました。

 フィールドノートを見返して気づくのは、とにかく人間関係の記述が多いことです。私は、「〇〇と××は同郷だが、知り合ったのは古着市場だ」「△△と□□は古着商売を始める前に一緒に建設現場で日雇い労働をした経験があり、仲が良い」などという関係性だけでなく人間関係の機微に強い関心を持っていました。それゆえ「〇〇は3年もつきあった彼女を△△に略奪された。彼らは一緒に仲良く商売をしているが、腹の中では互いをまったく信じていないと言う」「△△は昔スリをして捕まったことがあり、その時に仲裁役を買って被害者と和解させたのが××だ。それなのに△△は、××から上客を奪ってしまった」などの人間関係のいざこざや、「彼は煙草も酒もやらないが、女好きで婚外子が6人もいる」「彼は大人しそうに見えるが、実はバーでけんかした相手を半殺しにしてムショにぶち込まれたことがある」などの人物評に関するゴシップを嬉々として集めていました。

 私は、個々の商人たちごとにファイルをつくり、民族や出身地、学歴、資本規模、居住形態などの属性から商売歴、誰とどういう関係にあるかといった人間関係、食べ物の好き嫌いや応援するサッカーチーム、「推し」のアーティスト、日々の懐事情に恋バナ、口癖や歩き方の癖に至るまで知りえた情報をなんでも細かくメモしていました(⇒写真1)。こぼれ話を夢中になって集めているうちに、300人以上の人物ファイルがなんとなくできてしまったのです。

[写真2]商人たちの人物ファイル

 ただ、正直に言うと、それらの情報がどんな成果に結びつくかなど、まったく考えていませんでした。私が現地で毎日考えていたのは、仲間の商人たちを知り、彼らの間でうまく立ち回り、日銭を稼いで商人たちに仲間として認められ、日々を生きぬいていくことだけでした。それでも、六か月、一年と地道に集めた情報を繋ぎあわせると、古着商売や商慣行のしくみや複雑な人間関係がよくわかってきます。それと同時に、たくさんの疑問も湧いてきます。特に私が漫然と書き留めていた人間関係の諸々は、騙しあいや裏切りを織り込んで成立している彼らの商世界について思考する基盤となっていきました。

「仲卸商は、これほど何度も古着の代金を踏み倒されているのに、なぜ出身地も本名も知らない行商人に信用取引を認めるのか」「裏切った仲間が戻ってきたとき、なぜこれほど簡単に受け入れてしまうのか」「こんなに裏切りが頻発するなかで、なぜ彼らはずる賢い相手こそが望ましい商売相手だと語るのか」「賢く騙すよりも賢く騙される方が大事であるとはどういう意味か」「親友でも他人でもない仲間であり続けるために、ずる賢さを発揮するとはどういう感覚か」など。

 こうした「なぜ」が次々と湧き上がる過程で、私は彼らが口癖のように「ウジャンジャ(ずる賢さ)」という言葉を発していることに気づいたのです。そのうち、彼らが「ウジャンジャ」だと言葉を発するたび、反射的に「いまのがウジャンジャ?なんで?どうして?どこが?」と、その行為や実践、語り口の妙を聞き返すようになりました。聞いてもよくわからないので、自身でも賢く裏切ることを試みたり、相手の心を動かすような嘘をついてみたり、さりげなく相手の期待をくじいたりしてみました。

 結局、自身が裏切ったり裏切られたり、助けたり助けられたりする無数の経験を通じて、私は、個々でそれぞれ異なるウジャンジャを身体的なレベルで理解しました。ただ、帰国後にそれを理論化することには苦悩しました。私は私自身の身体と癖に応じたウジャンジャを技として発揮できるのに、言葉にしたとたんにその生々しい魅力がそぎ落とされていくような感覚に陥ってしまうのです。

無駄に思える調査で醸成される勘

 ところで、参与観察は、賭けごとでもあります。ある関係性や場所に身を投じた後は、何らかの興味ぶかい出来事や語りと遭遇することをひたすら待つことになります。現地の人びとにはそれぞれ生活があり、夢があり、独自のリズムやスタイルがあります。彼らの生活や人生の邪魔をするわけにはいかないので、何か知りたいことがあっても、なるべく普段の営みの中に溶け込ませて調べたり聞いたりすることになります。一年も暮らすのだから、相手が言いよどむことを根ほり葉ほり聞いて関係を壊すより、自然にさりげなく聞くことのできるタイミングを待ったほうがよいですよね。ただ、待つという営みは、ただ漫然と待つことを意味するわけではありません。