「普通」探しの経緯
院生時代、というともう10年以上前になるが、フィールドワーク中に「普通」の暮らしをする人たちを探していた時期がある。
調査地に選んだ、イギリス南西部サマーセット州のグラストンベリーは、スピリチュアリティやニューエイジに関係するお店やワークショップでにぎやかなことで知られる。占い、セラピー、瞑想、太極拳、ヴィーガン、オカルト、ネイティヴ・アメリカン、仏教やインド系の信仰などに関連する講演会やワークショップが頻繁に開かれ、関連する書籍や雑貨を扱う店が中心部にはずらりと並ぶ。その中でも私はペイガニズム、つまりキリスト教以前のヨーロッパにあったとされる信仰の創造的な復興の調査をしていたが、それ以外の信仰や面白そうな事柄にも首を突っ込みつつ、2年ほどこの町に暮らした。
グラストンベリーの特徴は、他の町ではなかなか見られない、こういった「風変わり」な事柄なのだから、ここをフィールドに選んだ以上、それらについてエキスパートになることが求められている、と思い込んでいた。そんなあるとき、たしか指導教官から、たぶんメールで、「普通」に暮らす人々についても調べることを勧められる。
退屈そう、面白くなさそうと全然気乗りしなかったが、素直に探してみることにした。
しかし、すぐに困った。「普通」に暮らす人って、いったい誰なんだ?
「普通」の調査開始
どこから手を付ければよいのかわからなかったので、「普通」そうなお店や施設でサービス内容を確認することから始めた。郵便局、図書館、銀行、弁護士事務所、クリニック、薬局、高齢者施設、スーパーマーケット、ニュースエイジェント、洗濯屋、何軒ものパブ、旅行代理店、レジャーセンター、定期市。町の交通機関、スポーツチーム、新聞まで調べた。大家さんの許可を得て、家の屋根裏から中心部の人の行き来を24時間観察したり、下宿先の台所用品と食器の一覧、庭の植物一覧まで作成した。
グラストンベリーでの調査を一通り終えると、バスを乗り継いで、近隣の町の見学を始めた。かつての主要産業だった靴の博物館や泥炭[でいたん]の博物館、特産品であるリンゴ酒とチェダーチーズの工場も訪れる。ついでに、この地域の人にはなじみが深い野外音楽の祭典「グラストンベリー・フェスティヴァル」にも行ってみた。
新しい発見もあり、面白かったが(例えば銀行では、ポーランドからの移民のため、ポーランド語でサービスが受けられる口座を用意していた)、ほとんどの情報は研究にどう役立つのか、さっぱりわからなかった。
しかし中には、その後の研究につながる出会いもあった。
アン・ヒーリーさんへのインタビュー
アン・ヒーリーはサマーセット州の700人以上から、昔の暮らしについてのインタビューを行い、アーカイブを作成した女性だ。その功績が認められ、2010年には大英帝国勲章(MBE)を叙勲されている。1975年、グラストンベリーに新設された博物館のボランティアとして始まったプロジェクトであり、第二次世界大戦前や戦中も含め、現在では様変わりしてしまったこの田舎町の生活を、その時代を生きた人たちの肉声で伝えている。協力者の大半は今では亡くなっていることもあり、貴重な記録となっている。
グラストンベリーの隣町ストリートには、実は高級靴ブランド、クラークスの本社がある。ここの博物館を見学しに行った際、たまたま出会った方に、私の研究について話したところ、自分の近所に暮らす彼女に話を聞いてはどうかと提案され、数日後、ご自宅にお邪魔することになった。
彼女が集めたインタビューの記録は博物館の図書室に保存されているとのことだったので、後日、見に行くこととし(今ではインターネット上で読める)、その日は、この地域の産業や生活の変化について、思いつくままに伺った。
40-50年ほど前、通りに並んでいたのは、個人経営のパン屋、肉屋、金物屋、衣料品店、食料雑貨店など、日常生活に必要な物を売る「普通」の店だった。また農家の人々が家畜を連れてきて、売り買いをするような市場も定期的に開かれ、また、クラークス以外にも羊皮を加工して、靴、スリッパ、コート、じゅうたんなどを製造する地元企業がいくつかあったそうだ。その他、現在の地域にある企業とその雇用状況、電化製品や自家用車の普及とスーパーマーケットの進出、かつての学校制度と徒弟制度、そして1970年代にやってきたヒッピーとその子供たち、などなど。
それまでにも何人かの方から断片的に聞いていた話ではあるが、このように集中して、総合的に伺うのは初めてだった。彼女の語りから描き出された、少し前のグラストンベリーの姿は、私が知るそれとはかなり異なっており、町への見方が心なし変わるような気がした。
なお彼女はグラストンベリーに近い小さな村に暮らし、またサマーセット州ではなく、イングランド中部の出身である。そのためかはわからないが、グラストンベリーの「風変わり」を過度に称賛するわけでもなく、批判するわけでもなく、淡々と、事実と彼女の考えを客観的に述べてくれた。彼女と話したのはこの一回きりだったが、こんな風に地域のことを話す方に出会ったのは後にも先にもこの時だけだったので、今でも強く印象に残っている。
「普通」候補1:「農家」の人たち
期待通りにはいかなかったが、興味深かった調査もある。
この地域は、イングランドの中では農業で有名だ。特に、リンゴや梨などの果樹栽培と、牛や羊を野原に放つ畜産が盛んである。昔からの伝統的な生業に携わる人たちなら、「普通」の暮らしをしているかな、と思い、農家を探すことにした。
数年前にインタビューをした地元出身の方に再会した時、相談してみたところ、「うちは農家だよ」とのこと。後日改めて、経営しているカフェへインタビューに伺う。肉牛や乳牛を飼育しているとのことだったが、よくきくと、農家であるのは高齢のおじ。彼は時々手伝っているが、主な収入源はこのカフェなどの経営だった。
よく利用していた図書館の司書の方の実家が農家だと聞き、インタビューを申し込む。ご自宅では羊などの動物も飼っていると言うので、「お肉にするのですか、乳を取るのですか」と聞いてみる。すると「ペットだよ」という答え。よく聞くと、ご両親は広大な敷地を活かして、長期休暇で訪れた人のための宿泊施設を整備し、それが主な収入源とのこと。そして、田舎らしさを醸し出すため、何よりかわいいから、羊たちを飼育しているそうだ。
住み込みでのボランティアを受け入れてくれる農場を友人に紹介され、1週間滞在していたことがある。しかし、ここも農業が主な収入ではないことが初日にわかる。ロンドンのある団体が都会の子供たちの田舎生活体験のために所有している施設で、責任者のご夫妻は、農業に関心はもちつつ、ほとんど何も知らないまま、ロンドンからやってきたのだった。がっかりしたが、途中で帰るとも言いだしづらい。餌をめがけて突進してくる豚は怖かったし、ヤギは散歩に連れ出せば逃げ出す。羊たちは泊まっていたキャンピングカーを頭突きするし、卵を取りに行けば鶏につつかれる。動物たちと格闘する羽目になった1週間だった。
「普通」候補2:キリスト教徒たち
地元のキリスト教徒なら、「普通」の人を知っているだろうと思い、親しくしていた、あるプロテスタントの牧師に紹介を頼んだ。牧師資格をもち、ボランティアとしてグラストンベリーの教会で活動している女性だ。
「普通」の人と言われて、戸惑っている様子だったので、「スピリチュアリティやニューエイジに関係のない人たち」と言い換えてみた。すると「宗教に関心がない人・・・、無神論者ね。無神論者、無神論者、誰かいたかな」という展開になってしまった。「スピリチュアリティ」という概念は、キリスト教にもある。だからそれに関心がない人というのは、神に関心がない人と捉えられてしまったのだ。私の言い方に問題があったのは確かだが、このとき「普通」の説明は案外難しいことに気づいた。
教会に通うようなキリスト教徒の暮らしは「普通」とみなされていたが、彼らの中にもマッサージや太極拳に関わる人はいる。また、町内の教会はどこもヒーリングの時間を設けていたし、ヨガ教室が開かれている教会もあった。雑誌の星占い欄ぐらいは見る人もいるだろうし、今ならヴィーガンの人だっているだろう。
厳密にいえば、全てを否定した人もいたにはいた。エホバの証人の信者である。
友人に紹介されたエホバの信者の方から自宅に招かれ、私の研究について話したことがある。興味深そうに聞いていた彼女だが、やがて聖書を取り出し、該当するページを示しながら、私たちの信仰では、占いはよくない、セラピーはよくない、と考えられていると説明を始めた。私自身が責められたわけではなかったが、ここまで否定する人には初めて出会ったので、呆気にとられてしまった。しかし、エホバの証人の教義に沿った考え方を、その社会の「普通」と思う人はほとんどいないだろう。
「普通」候補3:地元出身者たち
さて、長期調査からの帰国後、アン・ヒーリーさんへのインタビューや、アーカイブから得た情報、そして日常的に見聞きした話をまとめて、ヒッピーが町に受け入れられていった過程について、ある研究会で発表した。すると、もっと地元の人たちに注目してはどうか、というアドバイスをいただいた。
そこで、その直後の調査では、大家さんの紹介で近所に暮らす地元出身者に話を聞いてみることにした。また、前回の調査を終える直前に出会った、地元出身の町議員にお願いし、他の議員たちにもインタビューを試みた。ちなみに、町の議員は選挙で選ばれるが、実費のみ支給の無給であり、日本の市町村会議員より決められることは少ない。この当時、議員を務めるのは、「普通」の人々とされる、代々町に暮らす一族の方が多かった。
話を聞いてみてわかったのは、何世代も町に暮らす人は町内に土地を所有していることが多い。そのため、「風変わり」な人たちのおかげで、所有している不動産を店舗や宿泊施設として貸し出せたり、飲食業などの自らのビジネスが潤ったりしている。彼ら自身の生活は「風変わり」ではないが、「風変わり」な人たちから利益を得ていたのである。
一方、偶然この町に暮らすことになった隣家の若い夫婦は、町の「風変わり」な店舗に辟易していた。しかし、額に青い三日月のタトゥーを入れた女性が提供している子供向けワークショップには幼い息子たちを連れて行くと言う。「彼女はいい人だし、子供たちが喜ぶから」である。彼らの生活は「普通」かもしれないが、「風変わり」な人たちと無関係に暮らしているわけではなかった。
その後の話
このような調査をもとにして書いたのが、初めての査読付き論文「オルタナティヴと対峙する地元民」(『宗教と社会』第19号)である。結局、結構な時間を割いたわりに、一本の論文にしかならなかった。その一部は博士論文、とそれにもとづく『グラストンベリーの女神たち』(法蔵館)に書き込んだとはいえ、コストパフォーマンスは悲しいほどに悪い。
しかし研究には役立たなかった町の基本情報は、イギリス社会の一般的な情報であり、意外にも、後に大学で教えるようになった時、役に立ったのである。またその後、「ノスタルジック・ニューエイジ」(山中弘編『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』、弘文堂)や「スピリチュアル・ツーリズムと地域開発」(『FAB』第2号)といった、観光関係の論文の執筆の土台にもなった。
「普通」の暮らしをする人を探したものの、スピリチュアリティやニューエイジに分類される事柄と全く縁がない人は見つからなかった、という出来事を経て、やっと「普通」と「風変わり」を区別することは難しくなってきている状況に気づいた。最初に両者を別のカテゴリーに分けられると思った理由の一つは、1990年代の調査にもとづく、あるグラストンベリーの民族誌(*)の中でそのように描かれていたからだ。アン・ヒーリーさんとのインタビューや、その他の町の人たちとの会話から考えても、当時は確かにそうだったらしい。けれどよく考えたら、私の調査はそれから20年も経過しており、こういった事柄に対する関心は社会全体で広がっているのだから、変化があって当然だ。この間に「普通」と「風変わり」の境界線は曖昧化していき、グラデーションのようになっていたのだと思う。
私の長期調査からも、10年以上が過ぎた。今では地元出身の議員の数は減り、スピリチュアリティやニューエイジに携わってきた議員が過半数を占めている。また町を訪れる人も、「風変わり」なもの見たさにやってくる、「普通」寄りの人たちが増えているときく。「普通」とは何かを考えることは、これからますます難しくなっていきそうだ。それは、グラストンベリーに限ったことではないかもしれないが。
(*)The New Age in Glastonbury: The Construction of Religious Movements. (Ruth Prince and David Riches, 2001, New York: Berghahn Books)