むしろ参与観察では、鍵となる語りや印象的な言葉がぽろりとこぼれ落ちてきたときに、それを逃さず受け止める感性と、その時の文脈に応じた言語的・非言語的な返しをして、相手にさらなる言葉を紡いでもらったり、それにかかわる行動を続けてもらったりするよう促す感性が重要であるように思います。この「ピンとくる」「レーダーが働く」といった勘のいくらかは、いっけん無駄に思える調査の積み重ねで培われるものです。加えて他者の営みに身体を伴って参与することが、一つ一つの言葉やふるまいに特有の勘を働かせるようになる基礎だとも考えています。

[写真3]靴商人と筆者

 たとえば、院生時代のある日、仕入れ代金を踏み倒して古着を持ち逃げした小売商がその翌々日に「持ち逃げした代金を食べてしまったので、また信用取引をしてほしい」と戻ってくるという出来事がありました。その時に仲卸商は、彼に「まあ、腹が減ったら、誰でも逃げたくなるよな。一人で考え詰めるとなおさらだよな。それで俺にどうしろと言うんだ」という言葉をかけました。それに対して小売商は「(田舎の定期市で売られる最低ランクの)グレードCの古着でいい」と返答しました。

 ふつうに聞けば、仲卸商は小売商の境遇に対する共感を示し、それに対して小売商は良い古着でなくていいから売ってほしいと懇願をしたように聞こえます。しかし、私は以前にその小売商が郊外に畑を借りて野菜を栽培したり、数十羽の鶏やあひるなどを飼育したりしているという雑談を、他ならぬその仲卸商としているのを観察していました。また私は仲卸商と飲みに行った時に、街中で仕立て業を営む小売商の妻がとびきりの美人だという話も聞いていました。つまり、仲卸商は小売商が食い詰めていないことも、一人で思いつめていないことも知っているはずなのです。

 私はその小売商が街中で売る古着としては低品質で売りにくいグレードBを渡されていたこと、彼がひとたびキレると極端な行動に出やすいと周囲から評価されていることも知っていました。不思議なことにこれらの雑然とした情報はここぞという時には瞬時に頭の中で像を結びます。そうして、私はこの短いやり取りが異なる意図をもつ駆け引きだと気づきます。

 要するにこういうことです。仲卸商は「お前は腹も減っていないのになぜ逃げたんだ。お前は何が不満なのか。俺にどうしてほしいのか」という意図の問いかけをし、それに小売商は「俺は、街中で苦労して売るより、田舎の定期市で売る古着を売ってほしいんだ」と返答したのです。持ち逃げは、いつもグレードBを渡されていた小売商による抗議の表明であり、それを仲卸商は承知のうえで上記の言葉を投げかけたというわけです。事実、定期市から戻ってきた小売商は仲卸人に踏み倒した以前の仕入れ代金もあっさり返済しました。

 一方で、私は、「腹が減ったら、誰でも逃げたくなるよな」という言葉が時には仲卸人と小売商のあいだに瞬時に「仲間意識」を立ち上げる殺し文句となることも知っています。上述した通り、私は昼までに一枚も売れなければ昼食を諦め、炎天のなか一日中重い荷物を抱えて歩きまわっても稼げなかった日はコーヒーをちびちび飲んで空腹を紛らせる日々を過ごしていました。満足に食べながら聞いても意味は分かりますが、腹が減って疲労困憊の身体を抱えて、この言葉を聞いた時にこみあげる情動や感覚は言語化しがたいものです。

 私と彼らは違うので、私の情動と感覚が彼らと同じだという根拠はどこにもありません。けれども私自身が身体的な経験を通じて培う感覚や情動こそが、フィールドで漏れ出てきた語りやささやかな出来事に対する感度をたしかに上げていることは明らかです。

 それは、なんでもない景色が以前とはまったく別物にみえてくるような感覚と似ています。調査を始めた頃は、目印となる看板やホテル、銀行などを中心に見えていた街の景色が、行商を続けていくうちに、点在する仲間たちのたまり場や、特定の古着の買い手がいる場所、警察の取り締まりがあったら逃げこむ細道、路上商人と取引関係をもつ仲間の零細商店などを中心とする景色にいつの間にか変化します。そのうち、初めて行商に出かける場所でも、「この雰囲気だと、あの路地の先あたりに野郎どもがたむろしている場所があるに違いない」とか「あっちに行くと警官にばったり遭遇しそうだ」などと勘が働くようになるのです。同じように、「あいつ、笑っていたんだぜ」といった何気ない言葉が、以前とは全く違う感覚でキャッチできるようになるのです。

「嘘」を待ちわびて

 さて、最初に述べたように、ウジャンジャは、駆け引きにおいて巧みに嘘や騙しを駆使する狡猾な知恵です。商人たちはじつに嘘が上手です。ばれても憎めない嘘をつくこと、ばれた後に嘘を笑いや悲哀に昇華させることも上手です。しかし彼らは、うまく騙すことよりも、うまく騙されることのほうが大事だと言います。

 零細商人たちの社会では、嘘をつかれたといって怒るだけの人は、ウジャンジャではない、つまり「バカ」だとみなされます。嘘だと気づいても、その商人がなぜ嘘をついたのかを考え、時には騙されてあげたり、時には気づいていることをそれとなく匂わせたり、時には自身も嘘をついてやりすごしたりしながら、互いの親密性や自律性、対等性を操作し、過度に依存しあう関係でも単なるビジネスライクな関係でもない、仲間というほどよい距離を維持していける人こそがウジャンジャな人だからです。

 上述した仲卸商が小売商に「嘘つけ、本当は困っていないだろう」などと言わず、駆け引きに持ち込んだのもそういうわけです。私は、いつしかウジャンジャが発揮される瞬間、すなわち嘘や騙しをいつでも待ちわび、積極的に探すようになりました。