たとえば、私は儲かった日には、仲間たちを誘って飲みに出かけていましたが、同じ顔ぶれで飲むのも飽きるし、そのうち、よく知らない古着市場の露店商や行商人たちをナンパして飲みに誘うようになりました。総勢297人の商人たちからライフストーリーを聞きだしてみると、それぞれの商人たちが他の商人たち、あるいは他の商人の友人や知人と人生の途中で関わりをもった話が豊富に出てきました。そうした人間関係の絡まり合いも興味ぶかいことでしたが、何より関心をそそられたのは、各人が話した内容が食い違っていることでした。

 たとえば、ある商人は、裸一貫で田舎を出奔し、路上のゆで卵売りから始め、苦労を重ねながら、やがて成功して大物の仲卸商としてのし上がり、梱(こり|数百枚の古着が入った塊)を数十個も仕入れ、たくさんの小売商に信用取引で卸していたが、その一人に裏切られて小売商に転落してしまったという半生を語ります。酒が入っているせいで感極まった顔をして、あの時に裏切られなかったら、俺は今でも古着市場一の大商人だったはずだと机をばんばん叩きながら話すのです。

 でも別の日に聞いた別の商人たちの話の中では、その商人はそれまで一度も梱を開いたことなどない小売商として登場したりするのです。何人かの話を突き合わせると、おそらく最初に話を聞いた商人が自身を大きく見せる嘘をついていたのだろうと気づいてしまいます。

 なぜ嘘をついたのかに関しては、私はさほど関心がありません。聞き手である私へのサービス精神かもしれないし、そこにコンプレックスやトラウマがあるのかもしれないし、その場のノリかもしれないし、嘘をついた本人ですらよくわかっていないことも多々あります。

 それよりも面白いのは、人間には嘘を織り交ぜながらかくも豊かに整合性のとれた物語を紡ぐ想像力があること、それぞれの嘘や嘘の紡ぎ方には癖や個性が発揮されていること、嘘の取り繕いかたにも癖や個性が発揮されること、しかし嘘や嘘の紡ぎ方、個々が可能な演技や変身は無限ではなく、いくつかのパターンやちょうどいい加減の領野があること、それらのレパートリーや加減は彼らが埋め込まれている社会において他者の心を動かすものとして共通して抱いている集合的な悩みや規範や実践的な論理と結びついていることです。

 このように、ひとつひとつは「ささやかな嘘」を個々が都市で生き延びるために培ってきた知性の結晶、あるいは彼らの社会で大切にされているものを紐解く切り口としてまなざすと、その豊かさに気づかされます。そして一緒に飲んでいる商人たちが仲間の語る嘘を涼しい顔でやり過ごしたり、それに悪乗りして嘘を重ねたりすることに発揮される知恵や賢さにも魅了されるようになります。

 他者の嘘は脅しのネタにも、個人の不完全さや弱さ、ずる賢さを糾弾する根拠にもできます。それに対して、私がタンザニア商人たちから学んだことは、嘘をままならない個々の事情を汲み取り助けあう契機にしたり、甘え依存しあう関係を引き離す契機にしたりしながら、誰もが不完全でままならない存在であることを前提にした社会を築いていく知性でした。自他の嘘や騙しをどのような資源にするかは、私たち次第なのです。