人権=思いやり?

「人権」という言葉を聞いて、みなさんは何をイメージしますか? 困っている人、たとえば高齢者や障害者に手を貸してあげたり、赤の他人にも優しく接することなどを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

 日本の大学での講義で、私はよく「人間らしく生きるために不可欠なもの」を受講生に訊ねています。多く返ってくる答えは、教育や医療の良好な環境、安全な住居、移動・意見表明・情報取得の自由、差別されないこと、などです。実は、これらはすべて人権と直結しています。つまり、私たちは誰もが日々人権を行使して生活しているのですが、それについてはあまり認識されていません。

 日本では「思いやり」や「優しさ」を育てる道徳教育が、人権教育と混同されているようです。人権教育について「人権尊重の精神の涵養を目的とする」と法律で定義され、人権のイメージが精神的なものに偏っています。そのため、たとえば目の不自由な人が車道を渡ろうとしていたら手を引くなどサポートしてあげる、といったように、「人権は困っている人や弱い立場の人のもの」と考える人が多いのです。

 思いやりや優しさは確かに大切ですが、人権は特定の人だけに与えられているものではありません。人権について、国連の人権高等弁務官事務所はこう説明しています。

「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」

 こうした考えを基礎としているのが国際人権法です。私はイギリスのエセックス大学人権センターで研究を続けながら、年に数ヵ月日本に滞在し、人権問題についての講義や講演などを行っています

「特定秘密保護法」の衝撃

 私がこうした活動を始めたきっかけは、2013年9月に日本政府が「特定秘密保護法」の準備を進めているのを友人のフェイスブックで偶然目にしたことでした。

 当時、私は開発金融機関の情報公開制度を調べるうえで、情報への自由に関する国際人権基準を研究していましたが、特定秘密保護法はその基準と情報開示に関して、あまりにもかけ離れていたのです。本来、重要な法案は専門家の意見を取り入れ、透明性を担保して起草されるべきですが、日本政府が閉ざされたドアの向こうで非民主的に準備を進めていることに大きな危機感を抱きました。情報や表現の自由について規定され、日本も批准している国連の自由権規約第一九条から、明らかに逸脱しています。

 しかし、ネットを通じて特定秘密保護法案に対する日本の反応を追うと、「憲法違反だ」という声はあがっていても、「国際人権法違反だ」という声はどこからも聴こえてきません。それまで私は日本とイギリスで国際人権法を学び、人権状況の悪い国々のために国際貢献しようと考えていました。想定していたのは主に「途上国」と呼ばれる国で、まさか「先進国」であるはずの日本が人権を尊重していない国だとは考えてもいませんでした。