ユニラテラルな報道

 一方、アメリカは上記のように公然とイスラエルを軍事的にも政治的にも支援しているが、イスラエルについて「アメリカが後ろ楯の」とはメディアは言わない。こちらは国家で、独立のアクターだからということだ(だからイスラエルはハマスやヒズボラを「テロリスト」扱いし、ガザ地区をその巣窟とみなして、国なきガザの民衆を虫けら以下の存在であるかのように住居・学校・病院ともども爆破し追い立て蹴散らし捻りつぶして恥じない)。

 双方が互いを交渉相手として承認した「オスロ合意」がそうだったように、イスラエル・パレスチナの抗争に関しては、最大の後ろ楯であるアメリカが仲介するしかないのだが、まさにそのオスロ合意を徐々に蚕食して以来、イスラエルはアメリカの言うことをも聞かなくなっている。アメリカは「二国家案」を押しつけようとするが、「テロリストを相手に交渉することはできない」。そのことは、70年代のハイジャック対策以来イスラエルが教えたことだ。

 「人質」を取られてひるんではならない。人質を取るほうが悪いのだから、犠牲が出てもそれは「テロリスト」のせい。だから「卑劣な手段」にひるむことなく「テロリスト」を撃つ、それがイスラエルのやり方で、アメリカもイスラーム・テロに手を焼いて「テロとの戦争」に打って出たではないか、というわけだ(だが、「人質」を取るのはたいてい、すでに不当に捕えられている「囚人」と交換するため、あるいは占領地では住民の全体が占領国の「人質」にされている)。

 イスラエルが強硬策をとり続けて「レッドライン」を超えるとしても――ガザや西岸地区の武力制圧だけでなく、非力な隣国レバノンを空爆し地上侵攻して、イランが反撃に出ざるをえなくなり、本格戦争に引きずり込むことができれば――、アメリカはイスラエルを防衛せざるをえず、イランと戦争状態に入る(それは避けても、イスラエルの戦争拡大に必要な兵器を供与し、その戦争を黙認し、実質的に支える)。そうしたら、すでに長期の制裁で疲弊しているイランは打撃を受け、立ち直れずやがて崩壊することになり、イランも「民主化」されて、イスラエルは中東で初めて安泰になる。それがシオニスト政権の目指すところだろう。

 しかしSF的妄想でもなければそうはいかないだろう。生身の人間はそう簡単には「家畜化」されず、現在のアメリカ世界(南北アメリカ)をみればわかるように「先住民」は根絶できない。世界は決定的な分断を見ることになる。

何が回帰しているのか?――「西洋の没落」

 いまここで回帰しているのは、文明が野蛮を制する征服戦争でも、西洋諸国が世界を統合する植民地獲得戦争でもない。そうではなく、その地の先住民を追放・根絶し(あるいは無力化し)、そこに自分たちの富と力と繁栄を築く、もうひとつの西洋化、つまり「新世界」アメリカ建国型の戦争である。

 けれども、これはもはやうまくゆかない。アメリカは成功した。そして、世界戦争後にも唯一、戦争で世界を制する国になった(しかし、戦火によってではなく核の抑止力によって)。イスラエルはこの核の時代に、その戦争を地域的に反復している。だが、それを取り巻く「国際社会」の状況は、大きく変わっている(一般にも別の形でそう言われているが)。

 グローバル化によって旧植民地諸国(アフリカ)は言うに及ばず、西洋によって周辺化されていたとりわけアジアの諸国が力を蓄え(人口も増え経済的にも「成長」して)、国際社会での重要度を増している。また、ラテン・アメリカでも合州国管理からの自立を志向する国々が増えている。

 だから、近年G7(先進国首脳会議)が世界を主導する姿勢を示すが、そこから締め出されたBRICSが無視できない力をもち、その諸国も含めたG20の重要性が増している。それはアメリカが言うように専制主義国家が台頭しているといったことではなく、西洋の世界統治(「古い西洋」とそれを引き継いだ「新しい西洋」)によってさまざまな意味で、直接支配や従属的地位に置かれてきた国々が、それぞれの「西洋化」を経て復興してきているということである。

 その中にも、非西洋的歴史に基づいて「大国」としての地位を求める国々もある。中国、インド、トルコ等だ。だが、それらの国々にしても、核とそれに代わる最新技術(デジタルAI化)とグローバル・ネット経済の時代に、軍事力で世界を制覇しようとはしないだろう。そしてその他の植民地支配から独立した国々は、地域紛争を起こす小勢力は興っても、国として戦争で物事を解決しようとする力はとうていない。大きな戦争が起こっても巻き込まれて混乱し疲弊し分裂するばかりで、戦争の主体になどなれない(ロシアは、ソ連崩壊とそれに続く「市場開放」で国家解体の危機に陥ったため、強い指導者を必要とし、それが国家防衛の任を引き受けることになった)。

 だからこそそれらの国々は、経済的な収奪がうまくゆかなければ戦争で状況を変えるという西洋先進国(G7)の抜きがたい習性にもはやついてゆけないのだ。とりわけ、蘭・英の植民地支配の後、白人優位を制度化して独立し、アパルトヘイト(人種隔離政策)を経験してそこから何とか脱却した南アフリカは、イスラエルの占領政策をアパルトヘイトと批判し、今回のガザ殲滅戦でもイスラエルのネタニヤフ首相を「戦争犯罪」の咎で国際司法裁判所に訴えている。

 かつての西洋諸国による植民地支配から独立した多くの国々は(イスラーム化の進んだ国々もあるが)、イスラエル・パレスチナの長引く抗争の背後にユダヤ・キリスト教とイスラームとの宗教的対立を重ねるのでも、文明化した近代民主国家とその秩序に服さない蛮民の粗暴な抵抗をみるのでもなく、戦争によって先住民を掃討し、それに対する抵抗を「国家の権利」(国民の安全保障)の名のもとに殲滅しようとする(あるいは徹底的に無力化、隷従民化する)、独善国家の暴力を見ている。だがそれでは、グローバル世界における諸国・諸地域の共存は成り立たないのだ。

「戦争の文明」の転換期

 最強国アメリカの「力の正義」論理がグローバル・メディアにも浸透している。だから「戦争」の見方も倒錯してしまうのだが、2020年代半ばの現在起きているのは、戦争(競争と戦い)による世界化という西洋文明の「発展」がついに臨界を越え、統合的発展がその内実を破滅的崩壊かさもなければ脱西洋的・複合的グローバル性へと変容させる、そんな転換期なのである。

 その「転換」に抗う西洋が、世界戦争の惨禍を忘れて、経済・技術革新を梃に再び戦争の時代を招来しようとしている。じつは、中国もロシアもインドもトルコも、地域的・世界的影響力をもとうとはしても、かつての西洋のように世界制覇など夢見てはいないだろう。だが、そうした諸国が西洋にとって代ることを怖れて、その恐怖を「敵」に投影する。それが現代の世界に浸透する「再戦争化」の傾向を生み出している。