アフガニスタンとはどんな国だったのか
ただ、アフガニスタンとはどういう国であり地域であったのか。ここは昔からペルシャとインドの間に挟まれた山岳地域で、南はパキスタン、北にはタジキスタンやウズベキスタン、トルクメニスタンなどと境を接している(「スタン」はペルシャ語で「~人の土地」といった意味だ)。伝統的に諸部族並存の地域で、国民国家の形をとったことがなく、一九世紀の後半にロシアをにらんだイギリスの侵攻を受けるが、諸部族の結束で二度も撃退している。その頃にはイラン風にシャー(ペルシャ語で「王」)を戴いて王国のかたちをとっていたが、徐々に近代化が進んで(その間に第二次世界大戦、インド・パキスタンのイギリスからの分離独立等の出来事がある)1970年代に王制廃止・共和制革命が起こる。しかし冷戦の影響下で、政権が社会主義化すると政情が混乱、1979年にはソ連軍の介入を招くことになった。
それに対して伝統的にイスラーム化していた諸部族が武装して対抗、そこに外国からのイスラーム戦士団(ムジャヒディン)がCIA(アメリカの中央情報局)の支援を受けて加わり(その中にサウジ・アラビアから来たオサマ・ビンラディンがいた)、十年の後にソ連軍を疲弊の末に撤退させることになった(アメリカのベトナム戦争のように、このアフガン侵攻がソ連社会を内部から蝕むことになり、それが連邦崩壊の要因のひとつになったと言われる)。
だがそれ以降、アフガニスタンは中央権力の空白下で武装諸部族が相争う内戦に陥り、部族割拠の混乱状態が続いて国土は荒廃し、暮らしの成り立たない多くの住民が難民として流れ出たが、1990年代末には新興勢力のタリバーンがほぼ全土を掌握する。タリバーンは、ソ連侵攻時に生じた孤児たちを集めてイスラーム戦士に仕立てる学校(マドラサ)で育った「生徒」(それがタリバーンの語義)たちだった。だから彼らには帰属する部族も地域もない。ただ、アフガニスタンの戦災孤児である。
その彼らは、内戦で混乱の続くアフガニスタンで相争う部族勢力を平定し、外敵(西洋)の影響も排してイスラーム統治を実現しようとしたとみられる(だから、西側観光客を引きつけるバーミアンの仏像などは異教の偶像として破壊した)。オマル師と言われる当初の指導者の素性や意図は明らかでない。ただ、わずかに知られているのは、マドラサで使われた原理主義的教科書の一部は米国のCIA関連の印刷所で作られたものだということである。そのタリバーン政権はアフガニスタン・イスラーム首長国を名乗った。
「最貧国」への「報復」
アメリカで9・11 が起こったのはその頃だった。3000人余の犠牲者を出したアメリカ政府は、その「報復」のための「敵地」を求めた(9・11の現場は、世界初の原爆実験場になぞらえて「グラウンド・ゼロ」と呼ばれたが、その約一年後の長崎の原爆慰霊祭で、当時の伊藤一長市長は、広島も長崎も「報復」を求めない、「ノー・モア・ナガサキ」というのはよそにも「グラウンド・ゼロ」を作ることではなく、「われわれを最後にしてくれ」という願いだ、と演説してアメリカの報復戦争を批判し、それを支持する日本政府を批判した。つけ加えて言うなら、その数か月後、伊藤一長市長は右翼の凶弾に斃れた)。
ただ、その頃、アフガニスタンは歴史的な旱魃[かんばつ]に襲われ、疲弊した国土はさらに痛めつけられて、パキスタンとの国境には広大な難民キャンプもできていた。当時、世界でもっとも貧しい国とも言われていた。日本の医師中村哲が、医療支援活動の傍ら、国境沿いの地域に住民といっしょに六百本の井戸を掘るのもその頃である。
だがアメリカは、タリバーンがビンラディンを匿っているとの口実で、西側諸国を率いてアフガニスタン攻撃を始めた(日本は爆撃機の空中給油支援で「貢献」)。国際法を反故にする論理はいくらでも作り、この時はNATO(北大西洋条約機構)の「集団的自衛権」を活用した。アメリカが攻撃を受けたから、NATO加盟国はアメリカの「自衛」戦争に協力する義務があるとして、戦後ドイツの外交軍事方針を根底から転換させた。ナチスの過去を負うドイツは、戦後そして冷戦明けの再統一後、初めてEU軍の一角としてアジアまで海外派兵を行うのである。
解放すなわち体制転換
「不朽の自由(enduring freedom)」と名づけられたこの作戦の目標は「体制転換」、つまり「アフガニスタンを実効支配する」イスラーム勢力タリバーンを崩壊させて、望ましい政権を据えることである。それがアフガニスタンを「解放」することになるという。しかし誰のための「解放」か? それが「自由を求めるアフガン民衆」を、「古い因習で野蛮に支配する(とりわけ女性の権利弾圧する)タリバーン」から救い出すためなどでないことは明らかだ。
当時のブッシュ大統領(その他の政権幹部)がアフガニスタンという国のことをどれだけ知り理解していたかは定かでない(後のトランプは、大統領就任当時ブラジルがどこにあるかも知らず、国務省のブリーフィングが通じなかったという)。しかし、そんなことは問題ではなく、ビンラディンの「首を上げる」ことを目標に、イスラーム原理主義勢力からアフガニスタンを「解放」するというのである。
タリバーン掃討の大詰めに(爆撃開始は2001年の10月7日、11月13日に反タリバーンの「北部同盟」が首都カブールを制圧)、CIA手配の手兵100余人を率いてパキスタン国境地帯に降り立ったハミド・カルザイは、以前はタリバーン政権にも協力していたが、米石油大手の取締役も務めていたと言われる。アメリカはこの頃、冷戦後の状況変化の中で中央アジアの資源を確保すべく、アフガニスタンに石油パイプラインを敷設する計画をもっていた。彼はその計画のエージェントでもあったのだろう。それにまた、中東の非イスラーム化はアメリカにとってイラン革命以後の見果てぬ夢であり、その中核に湾岸戦争の決着としてのイラクのフセイン政権の打倒が展望されていた(その展望の大枠はすでにふれた「アメリカ新世紀プロジェクト」に明確に掲げられている)。
「文明国」の力の誇示
このとき米国防長官ラムズフェルドが、アフガン攻撃に協力を渋るパキスタン(ムシャラフ首相)を傍目に言い放った表現がふるっていた。「アフガニスタンを石器時代に返してやる!」と。一九八○年代のイラクの対イラン戦争にも背後から関わり、当時の副大統領ディック・チェイニーとともにこの間のアメリカの戦争と軍需産業(だけでなく製薬業界も)を「回転ドア」で渡り歩いてきたこの人物は、9・11以来、「ウエストファリア体制はもう古い」と言って、主権尊重や内政不干渉の国際ルールなどを文字どおり蹴とばしてていた。
超大国アメリカの政治指導者たちの傲岸と独善と粗暴さがこれほど露わにさらされたことはなかった(その後のイラク戦争でも繰り返される)が、彼らの傲岸不遜に道を開いたのが9・11で演出された「アメリカが攻撃された」、「アメリカは非道なテロで多くの犠牲者を出した」という倒錯的「特権」意識である。膨大な被害を出したから「報復」の正当な権利がある、これがアメリカの「正義」意識である(当時アメリカの軍事費は、二位以下の十カ国の合計を優に凌駕しており、世界に八百カ所近い駐留軍を置いていた、そんな軍事超大国がなぜ「被害国」でありうるのか)。
戦争の非対称性とテクノロジー
タリバーンが降伏すると11月にはドイツのボンでアフガニスタン管理の国際会議が開かれ、ハミド・カルザイを首班とする暫定政府が作られた。二年を準備期間としてこの地で初めての直接選挙が行われ(部族勢力の武装解除を経て)、カルザイは正式の(民意によって選ばれた?)大統領となった。だが、各地で侵攻軍に対する「抵抗」は止まない。その抵抗は「テロ」と呼ばれ、米軍とEU軍によって「掃討」される。
一方、政府は統治のために旧有力部族の協力を得なければならない。それが利権構造を作る。結局、新政府はカブールの中心地を要塞と化し米軍に守られて存続する。そして各地ではEU軍が「テロとの戦争」を展開する。地方の人びと(主として農民)の生活は安定するどころではない。貧した住民はアヘン栽培を始める。それが経済・社会を無秩序に引きずり込む。「テロとの戦争」は住民一般を潜在敵として爆撃・掃討戦を行うから、住民にとっては大迷惑以外の何ものでもない。だから「誤爆」や場当たり的な襲撃を繰り返すEU軍の評判は悪くなる一方だ。
また、米軍は2003年にはイラク戦争を始めたために(20万の派遣)手薄になり、オバマ大統領の時代にはドローン攻撃を主にするようになる。これなら現地に兵隊がいなくても、アメリカ本土の米軍基地で日常業務としてバソコンの前で遠隔爆撃ができる。昼食時には自宅に帰って子供と遊び、また午後に事務所に戻って「パソコン仕事」の戦争ゲームだ。だが、スクリーンの向こうの遠く離れたはずの現場では、ミサイル命中爆破の噴煙の下で、じつは何の関係もない人びとが肉片になって飛び散ったということを後で知る。その犠牲者たちには怒りや絶望を向ける先がない(ドローンはただの機械で「別世界」から操縦されている)。
そんなことに気がつくと、事務仕事として毎日殺人業務をこなしている米兵には精神的不調を訴える者も出る。するとPTSDとか診断されて精神的ケアを受けることさえできるのだ。一方では、ポンコツトラックで隣の村に用事に出かけてデコボコ道を走っていただけなのに、不意に天からミサイル攻撃、米軍が誤爆だと認めても補償金一人20ドル。これが「テロとの戦争」の「非対称性」である。現地住民の敵意を集めないはずがない。
さすがにハミド・カルザイも、これでは民衆が離反し統治ができないとアメリカに苦情を言い、やがてそのやり方(「テロとの戦争」)を批判するようになる。そこでカルザイの役割は終わる。つまり二期務めてお役御免になり、次の選挙では新たにアシュラフ・ガニ大統領に立ち選出される(2014年)。
だが、この頃にはアメリカはイラクでも自ら作り出した混迷に手を焼き、アフガニスタンからは手を引きたがっていた。そのため、2015年頃から中国で交渉がはじまるが、やがて2018年にはガニ政権を差し置いてカタールでタリバーンと秘密交渉を始める。