狸が出家する話

 前回は、合戦に敗れたカラスが出家する話でした。異類物と呼ばれるこうした話、つまり、動物などを擬人化した物語は、中世から江戸初期にかけて数多く作られました。その中でもきわだって面白く、また絵巻にも描かれて人気が高かったのが、鹿などを相手に戦って敗れた狸が出家する『十二類絵巻』です。そこで、今回は鹿に関する話にしましょう。

 この『十二類絵巻』は、田舎の無学な狸が、都の優雅な十二支の動物たちの仲間入りしようとしたところ、馬鹿にされ、殴られて追い出されたため、怒って仲間の狸たちをひきいて戦いを挑んだものの、敗れて出家し、狸だけに「狸[まみ]阿弥陀仏」と名乗ったという、ふざけた結末になっています。

 地方の「土民」とか「悪党」とか呼ばれる者たちが力をつけ、都をおびやかすようになった状況に反発し、都の教養に富んだ貴族が皮肉を込めて書いたとされますが、それにしては狸が同情されており、むしろ愛すべき存在として描かれているのが特徴です。

 ここまで聞けば、スタジオ・ジブリのアニメ映画、「平成狸合戦ぽんぽこ」を思い出す人もいるのではないでしょうか。こちらは、多摩丘陵を開発して巨大な団地群である多摩ニュータウンを造成する計画が持ち上がったため、この土地に住んでいた狸たちが「化学[ばけがく]」を用いて人間どもに抵抗を試みるという設定になっています。

 監督と脚本を担当した高畑勲は博学であって、平安時代の絵巻物である「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵詞」「鳥獣人物戯画」などをアニメーションの視点で考察した『十二世紀のアニメーション: 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』 (徳間書店、1993年)という本も書いているほど、絵巻にも通じていました。ただ、筋立ての関係もあってか、「平成狸合戦ぽんぽこ」では、『十二類絵巻』は考慮されていないように見えます。

 『十二類絵巻』は、十二支の動物たちが歌合[うたあわせ]をしている場面で始まります。歌合とは、参加者がふた組に別れ、左右の組からそれぞれ一人ずつが和歌を詠み、判者[はんざ]が理由を述べて勝敗を決定するという文雅な遊びです。その歌合を十二支の動物たちがもよおした際、鹿が判者を務めました。それは、鹿が、「二日[ふつか]」とか「三日[みっか]とか「二十日[はつか]」とかいうように、「か(鹿)」の字がひと月のうち十日も用いられていると主張したためでした。屁理屈ですが、判者には口が達者な人が向いていると判断されたのでしょう。

 この歌合の評判を聞いた狸は、十二支たちが歌合をしようとしていたところに推参して仲間に入れるよう要求し、「たちぬる月(改まった月)」という語には、「た」「ぬ」「き」が含まれており、十日どころではなく、前の月と次の月のふた月にわたっている、と論じて自分が判者を務めるべきだと主張したのですが、認められなかったばかりか、ぶちのめされてしまったため、それを恨んで戦を仕掛けたというわけです。

 『十二類絵巻』の絵では、鹿は貴族のような束帯姿で角を生やした姿で描かれています。当然ながら、雄鹿という設定ですね。実際、『万葉集』以来、鹿は和歌に良く詠まれてきましたが、その場合、発情期に妻となる鹿を求めて鳴く様子が詠われるのが普通です。

インドの一角仙人の話

 その発情期の鹿にやや通ずるイメージの話が、かの一角仙人説話です。一角仙人については、釈尊の前世譚を集めた『ジャータカ』を初めとして、多くの経典に様々な形で見えていますが、古い形をとどめるパーリ語の『ジャータカ』のうち、「アランプサー天女の話」はこんな内容です。

 森の中で苦行していた仙人が、いつも同じ石に小便をしていたところ、それを舐めた牝鹿が妊娠し、男の子を産みます。仙人は自分の子と知って育てることにしました。その子は、額に角が生えていたため、リシャシュリンガ(鹿角)、あるいは、エーカシュリンガ゙(一角)と呼ばれました。その子が成人し、森の中で激しい苦行に打ち込んだところ、天上のインドラ神の玉座が揺れ動きます。恐怖を覚えたインドラ神が美しい天女、アランブサーを仙人のもとに派遣したところ、アランブサーは一角仙人を誘惑して破戒させたため、神通力をなくすことができました。

 面白い話ですが、アランブサーが色っぽく振る舞って誘惑する場面は、詳しく描かれていません。これに対し、同じ『ジャータカ』中の「ナリニカー王女の話」になると、誕生の由来などは略されており、誘惑の場面が中心となっています。この話では、インドラ神は天女を派遣するのではなく、カーシ国に旱魃[かんがい]を起こさせたうえで、国王にこれはヒマラヤで修行している一角仙人の苦行のせいだと告げ、その苦行を破って雨を降らせることができるのは、王女のナリニカーのみだと知らせたため、ナリニカー王女が派遣されて仙人を誘惑し、陥落させたとしています。

 一角仙人の話は面白いため、様々な版が生まれており、王に派遣された美しい遊女が仙人を破戒させたうえ、仙人に肩車させた状態で王宮に戻ってくるという話まで生まれています。『今昔物語』に収録されている一角仙人の話は、このパターンですね。

 鹿が生んだ娘

 『ジャータカ』の中には、森で修行する仙人が小便をした石を牝鹿が舐め、女の子が生まれたとする話も見えます。こちらは一角仙人の話と違って色っぽい場面はありませんが、負けず劣らず面白い話です。ここでは、『雑宝蔵経[ぞうほうぞうきょう]』中の「蓮華夫人縁」を紹介しましょう。この話の後に置かれている「鹿女夫人縁」と筋はほぼ同じであって、「縁」とあるのは、由来話という意味です。

 ヒマラヤのあたりで修行していた仙人が、いつも同じ石に小便をしていたところ、牝鹿がそれを舐めて妊娠し、女の子を産んで仙人の庵の前に置きます。仙人が自分の子だと知って養ったところ、美しい娘に育ちました。その娘が歩くと、池でもないのに、その足跡から蓮華が咲きました。娘の美貌に惹かれた国王が、仙人に娘を自分に与えるよう頼むと、仙人はそれを許し、この娘は五百人の王子を生むだろうと予言しました。喜んだ王は、宮中に迎えて第二夫人とし、寵愛しました。なお、インドで「五百」というのは、日本語の「八百」などと同じで、たくさんということです。

 蓮華夫人は予言通りに五百人もの王子を生んだのですが、嫉妬していた第一夫人が「鹿女」への王の寵愛が増すことを恐れ、王子たちを五百の卵と入れ替え、箱に入れて河に流してしまいます。蓮華夫人が卵を産んだと聞いて王は怒り、夫人の身分を下げて遠ざけてしまいました。王子たちを入れた箱は、河の下流で遊んでいた隣国の王の五百人の妃たちが拾い、それぞれ一人ずつ育てることにしました。

 すさまじく力強い青年に育った王子たちは、王が隣国に貢納を強いられて悩んでいるのを見、隣国を打ち破るために出陣します。隣国の王は、それを聞いて恐れおののき、仙人に相談したところ、その青年たちは実はお前と蓮華夫人の子なのだから、蓮華夫人を大きな象に乗せて軍隊の先頭に置けば、相手は屈服すると教えました。

 王は蓮華夫人に謝り、大きな白い象に夫人を乗せて軍隊の先頭を進ませると、五百人の青年たちは強力な弓でこれを射ようとしたものの、なぜか腕が伸びてしまい、弓を引くことができません。その時、仙人が上空を飛び、王と蓮華夫人はお前たちの父母だと告げます。また、象に乗っていた夫人が二つの乳房をしぼると、乳がそれぞれ二百五十筋に分かれて飛んで行き、青年たちの口の中に入ります。すると青年たちは、愕然として父母に懺悔し、悟りを得ました。この話を語り終えた釈尊は、その仙人とは実は前世の私であって、両親に対して悪い心を起こしてはならないことを青年たちに教えて悟らせたのだと語った、となって話は終わっています。

 いや、インドの映画会社あたりがアニメ映画にしそうな面白すぎる話ですね。それにしても、「父母に於て悪心を生ぜざれ」ということを言うために、仙人の小便を牝鹿が舐めて女の子を生んだとか、妃が白象の上から乳を二百五十筋ずつ飛ばすとかいう話が、本当に必要でしょうか。この話は、やはり、教訓で終わる形にするにせよ、とんでもなく面白い話を語りたい、そうした話を聞きたいという願望の産物にしか見えないのですが。