カラスの悪いイメージ
前回は烏天狗と鼻高天狗の話でした。そこで今回は、カラスが出家する話にしましょう。仏教と縁が深い鳥と言えば、孔雀明王の本体である孔雀とか、山の寺の森などに棲むことが多く、「仏法僧」と鳴いているように聞こえるため霊鳥扱いされているブッポウソウなどが思い浮かびます。これに対し、カラスは古代から嫌われがちでした。
たとえば、奈良末期から平安初期にかけて書かれた日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』中巻第二の「烏の邪婬を見て世を厭ひ、善を修する縁」という話では、和泉の国の郡長にあたる男の家の大きな樹に烏が巣を作って雛を育てていたところ、夫が外を飛び回って雛と妻のために餌を探している間に、妻の烏が他の雄の烏と交わったうえ、一緒に飛び立ってしまったため、残された夫の烏が雛たちを抱いたまま餓死しているのを郡長が見つけ、世を厭って出家した、とされています。烏は好色で節操がないというイメージなのですね。
その郡長は出家して信厳[しんごん]と名乗り、行基の弟子となると、一緒に浄土に行こうと誓いあっていたにもかかわらず、幸い薄く、先に死んでしまいます。すると、行基は、
烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去[い]ぬる
という歌を作って歎いたと記されています。烏というひどく軽率な鳥が、言葉だけ「一緒に」と言っておりながら、先に行ってしまったことだよ、という歌です。「をそ」については諸説がありますが、定められた時期より早いことを指し、約束事を守らないことを意味するようですので、「うそ」と同じような意味になりますね。
『万葉集』巻十四にも似た歌があります。
烏とふ大をそ鳥のまさでにも来まさぬ君をころくとぞ鳴く
烏というひどく軽率な鳥が、あなたは私のところに来てくださらないのに、「自[ころ]来[く](自分から来るよ)」と鳴くことだよ、という歌です。カーカーに当たる鳴き声が「コロクコロク」と聞こえるので、「来るよ来るよ」と鳴いているように聞こえると不満を述べたのですね。行基の歌とこの歌では、烏はうるさく鳴くものの大嘘ばかり、というイメージだったことになります。
カラスを主人公とした中世の物語
ところが、中世になると、その烏が出家して極楽往生をとげたとする滑稽な軍記物語が登場します。『鴉鷺合戦[あろがっせん]』です。作者は、一条兼良[いちじょうかねら](1402-1481)と伝えられています。こうした伝承はたいてい怪しいのですが、きわめて知的な内容が冗談交じりに展開されていることから見て、室町末期から戦国時代初期を代表する文人貴族であった兼良作の可能性は十分あると見られています。
この『鴉鷺合戦』は、中世に多く書かれ、絵巻もたくさん作られた異類物、つまり、人間に代わって動物や植物や道具などが主人公となって活躍する物語のひとつであって、鳥たちが争う様子を軍記物語に仕立てたものです。
主人公は、祗園林に棲む烏です。名は、東市佐[ひがしいちのすけ]林真玄[はやしのさねはる]。真玄を「しんげん」と音読すれば、武田信玄みたいでいかめしい名ですが、「玄」とは玄米などの語が示すように「黒い」ということですので、「真玄」は「真っ黒」ということになります。実際、異本によっては、名の読み方を「まくろ」としているものもあります。物語の筋は次のようです。
当時、中鴨の森に棲む山城守[やましろのかみ]津守[つもり]の正素[ただもと]という名の鷺に、才色兼備の娘がおり、多くの鳥が結婚を望んでいました。真玄も噂を聞き、婿になりたいと正素に申し出たところ、真っ白い鷺である正素は、とんでもないことだとはねつけます。「素」とは、染色する前の白絹を意味しますので、「正素」は真玄とは対照的な「真っ白」ということになります。
真玄は娘に恋文を送りますが、正素は相手にせず、真玄の使者を追い放ちます。怒った真玄は、様々な鳥を集めて中鴨へ攻め寄せ、大音声をあげて「今日の大将、東市佐林の真玄、これにあり。山城殿はいづくにぞ。小兵[こひょう]なれども、矢一つまゐらせん」と呼ばわって戦います。鷺に比べると自分は小柄だが、矢を一本、お見舞いしてやるぞ、と呼びかけたのですね。
しかし、正素も五位鷺、青鷺、鶴などの仲間を集めて迎え討ったため、真玄の軍勢は破れて祗園林へと退却します。そして、戦死者の供養をした後、再び攻め込みますが、今回も打ち破られてしまいました。
真玄は諦めて高野山に登り、一族の鳥である仏法僧の勧めもあって出家し、烏阿弥陀仏[うあみだぶつ]と名乗ります。一方、勝利した正素も無常を痛感して高野山に登り、真玄を訪ねていって出家します。両者はこれまでの対立を忘れ、共に修行に励んで往生を遂げたことでした。
これで「めでたし、めでたし」となるはずですが、最後に「世間の争いもこれと同様であるため、根拠のない話をして世間の誤りを示したのだ」という説明がなされて結ばれています。その通りであれば、この作は世間のくだらない争いを諷刺するために書かれた、ということになります。
確かにそうした面も多少はあるでしょうが、これはもっともらしい教訓を最後につけただけのことのように見えますね。合戦の場面が生き生きとしており、言葉遊びなど多数なされていますので、黒い鴉がひきいる鳥たちと白い鷺がひきいる鳥たちの戦いという設定を作者が面白がり、『平家物語』の合戦場面などをもじって遊んで書いていることは明らかです。中国の故事なども必要ないほど盛り込まれており、知識をみせびらかしてふざけているのです。
高野山で敵同士が修行仲間となること
この話で注意すべきは、真玄と正素がともに高野山に登って出家し、それまでの抗争を忘れて修行仲間となったという点です。当時の高野山は、空海が開いた密教の根本道場というよりは、諸宗の正式な僧であれ単に世間を逃れただけの隠棲者であれ、極楽往生を望む者たちが集まる聖地とされていたため、こうした展開が自然なものと受けとめられていたのです。
この図式は、当時はいろいろな物語に見えています。たとえば、室町時代の物語とされる『三人法師』では、恋女房を強盗に殺された武士が出家して高野山に登り、二人の僧を相手に身の上話しをすると、次の僧が、その女房を殺したのは自分だと語ります。妻子を養うために殺して着物を剥ぎ取ったが、その着物を得た妻が大喜びする姿のあさましさを見て出家し、この山に登ったと語ったところ、先の僧は因縁の出会いに驚き、恨みを忘れて修行仲間となったとされています。
この話は、弘安6年(1283)にひとまず完成した無住の『沙石集』巻十第七話では、ある男が貧しさのあまり妻にせがまれ、道ゆく女人とそのお供の少女を殺して衣をはぎとり、血の付いた小袖を妻に渡したところ、嬉しげに笑う様子を見てうとましくなり、そのまま髪を切って高野山に登り、修行に励むとともに、殺した相手の菩提をとむらった、となっています。
つまり、一人の出家の懺悔話が元であり、それが後になって、女人を殺した男がその夫と高野山で出逢うという劇的な話へと変化したのですね。『三人法師』は室町末期の作と推定されており、『鴉鷺合戦』より成立は遅れるのですが、『三人法師』は衝撃的な筋立てであるため、滑稽物語である『鴉鷺物語』の影響を受けてあのような話になったとは考えにくいところです。
中世は、各地を旅して高野山が霊地であり、浄土往生の本拠地であることを宣伝して回る高野聖[こうやひじり]と呼ばれた遊行者が活躍していた時代です。この高野聖たちが、様々な逸話を高野山での出家で終わる形に仕立て、あちこちで説いてまわっていたのであって、それが『沙石集』や『鴉鷺合戦』や『三人法師』に取り込まれていったのでしょう。