白鹿の角

 前回は、鹿が仙人の子を生むという話でした。鹿と言えば思い浮かぶのは角ですので、今回はその話にしましょう。鹿の角は、古代から漢方薬として尊重されてきました。まして縁起の良い白鹿の角となれば、いっそう貴重な存在ということになります。

 ただ、中国で白鹿が縁起の良い動物とされたのは意外に遅く、唐代になってからのことです。楊貴妃との悲恋で有名な玄宗皇帝の宮中に一頭の白鹿が迷いこんだところ、仙人の王旻[おうびん]が千年生きた白鹿と見抜きました。そこで、調べてみると、角の根元に「宜春苑[ぎしゅんえん]中之白鹿」と刻んだ銅製の札が結びつけられていた由。

 宜春苑とは、前141年から前87年までの長きにわたって中国を統治した前漢の武帝の庭園です。712年から756年まで帝位にあった玄宗より800年以上前のものということになります。中国では、珍しい動物が出現するのは聖なる帝王の治世の証拠とされてきましたので、玄宗は大喜びして宴会を開き、白鹿を保護したと伝えられています。

 むろん、こうした場合、皇帝を喜ばせて褒賞を得るために、甲羅にめでたい文句を刻んだ亀の類が献上される場合が多く、インチキであることが発覚して罰せられることもしばしばでした。この「宜春苑中之白鹿」と刻んだ銅の札にしても、偽物であることは言うまでもありません。ただ、罰せられなかったのは、玄宗の機嫌を損なうことを恐れ、臣下たちがきちんと調査しようとしなかったためでしょう。

 白鹿の角の根元にあった漢字

 ところが、日本でも古代に白鹿が出現したとする文献があります。その文献によれば、雁越[がんえつ]国の国司が宮廷に献上してきたそうですが、巨大な白鹿であって、角の枝が17に分かれており、しかも、それぞれの枝に「琴、斗、月、台、鏡、竹、冠、契、龍、花、日、車、地、天、水、籠、鼎」という17の字が一つずつあった由。

 この白鹿を見て驚いた当時の皇太子は、これは「神仙の獣」であり、天皇の仁政によって万民が豊かで楽しんでいるため天が与えたものではあるが、現在の政治はまだ完璧でないところがあり、よりいっそう仁政に努めないとかえって凶運に逢うことでしょう、と奏上したそうです。その皇太子とは聖徳太子であって、天皇は推古天皇です。聖徳太子は、この17の文字に基づいて「憲法十七条」を作成したと、その文献は伝えています。

 これはちょっと不思議ですね。雁越国などという国は聞いたことがありません。また。玄宗の時の白鹿出現事件とよく似ているものの、玄宗の統治は8世紀初めから半ばまでです。一方、『日本書紀』によれば、聖徳太子が「憲法十七条」を作成したのは推古天皇12年、つまり605年の4月とされているため、玄宗の時の白鹿出現より前ということになります。玄宗の周辺が、東方の小国の出来事を参考にして、白鹿の角の根元に長寿の証明書のような金属片をくくりつけたのでしょうか。

 むろん、そんなことはありえません。白鹿出現を説くこの日本の文献は、玄宗の世の出来事を参考にして江戸時代に作成された72巻もの偽作です。聖徳太子の編著と称するその本の名は、『先代旧事本紀大成経[せんだいくじほんぎたいせいきょう]』。成立事情については諸説があってよく分からないものの、17世紀後半に世に出たものです。ただ、前半が出版されると偽書と判定されて刊行禁止となり、版木も焼却されたうえ、関係者たちが処罰されたにもかかわらず、近世で最も長大で重要な偽書として大きな影響を与え続けました。

 五種の「憲法十七条」

 特に人気があったのは、巻70の憲法本紀[けんぽうほんぎ]に掲載されている「通蒙憲法」、「政家憲法」、「儒士憲法」、「神職憲法」、「釈氏憲法」という五つの憲法です。「通蒙」とは、広い範囲を覆うということであって、すべての人たち向けの憲法ということでしょう。「政家」は為政者、「儒士」は儒教を学ぶ者、「神職」は神社の神官などですね。「釈氏」というのは、仏教徒ということです。そうした者たちを対象として、それぞれ憲法が創られたのです。

「釈氏憲法」の鹿の図

 この五憲法は、いずれも十七条で成り立っており、その点は『日本書紀』に掲載されている「憲法十七条」と同様です。しかも、「通蒙憲法」は通常の「憲法十七条」とほぼ同じですが、「憲法十七条」の第二条が「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり」と述べている部分が最後の第十七条に回されており、「篤く三法を敬え。三法とは、儒・仏・神なり」と改められていました。

 つまり、聖徳太子は仏教だけを広めたのではなく、儒教も仏教も神道も尊重すべきだと説いたというのです。しかも、『大成経』では、この三教は三本の足で支えられている鼎[かなえ]のようであって、どれ一つを欠いても国家は立ちゆかないと強調していました。この立場は、白鹿の十七に分かれた角の根元に書かれていた文字の最後の字、「鼎」が示していたものです。

 聖徳太子は、この字に基づいて五つの憲法を作成したのであり、『日本書紀』に掲載されている「憲法十七条」はその一部、それも愚かな人たち向けであって、太子の意図が完全には示されていない不十分なものだった、ということになるのです。いや、凄いですね。「憲法十七条」は、仏教を尊重するよう説くだけで、「神」にまったく触れず、儒教の根本である「孝」にも触れていませんでした。これは、愚かな人のための憲法だったからなのですね。

 『大成経』、特に偽の『五憲法』の人気

 江戸時代の初期は、幕府が仏教を批判する朱子学を国家の基本の学問にしようとしていた時期であり、また、急激に地方の庶民にまで広がっていった仏教に反発し、日本の神々の意義を強調する人たちが増えていった時期です。このため、仏教界は、そうした儒教や神道側の批判に困らされ、盛んに反論していました。

 つまり、儒教・仏教・神道の三教は鼎の足のように不可欠だと説く『五憲法』は、当時の三教の対立を調停しようとして作られた偽作だったのです。この作者が現代に生きていたとしたら、「多様性憲法」とか「SDGs憲法」とかを作ったでしょうね。あるいは、大谷翔平の活躍を予言するような儒仏道の「三刀流憲法」などを作ったかもしれません。

 時代の状況に合った偽作なのですから、それを真作とみなして熱心に奉じる人が出てくるのは当然でしょう。実際、政府が神道重視の政策をとり、廃仏毀釈もおこなわれて仏教が痛めつけられた明治初年には、仏教界は通常の「憲法十七条」以上に『五憲法』を重視し、「いや、聖徳太子は儒教・仏教・神道を等しく尊重せよと説いておられた」と主張したのです。

 この『五憲法』人気は現代まで続いており、昭和の時代の信奉者の代表は、「お客様は神様です」の言葉で知られる三波春夫です。演歌歌手として大成功した三波は、義理人情を題材とする浪曲の出身であって、真面目な読書家であったため、神仏を尊重し、儒教道徳を説く『五憲法』にほれこんでしまったのです。

 そこで、友人と一緒に日本全国を旅してまわり、『五憲法』が聖徳太子の真作である証拠を集めようとしました。その友人とは、なんと、「上を向いて歩こう」などの作詞で知られる永六輔です。三波は、1968年には、小学館から『聖徳太子憲法は生きている』という本を出しており、この本は現在でも売られています。「聖徳太子憲法」とは、『五憲法』のことです。

 奈良では鹿は春日大社の神のお使いとされているため、秋の鹿の角切りで切られた角は、神前に供えられられますが、その際は、根元に字が刻まれていないかどうか確かめるべきですね。今年の字は「再」だったとなると、来年はコロナが再流行するとか言われそうです。

 なお、狩猟の神の性格も持つ諏訪大社では、かつては祭りの際に切り落とした多数の鹿の首を神前に並べていました。その諏訪明神の縁起は、聖徳太子と結びつけて語られており、諏訪大社上社の神長官[じんちょうかん]を代々務めてきた守矢氏[もりや]は、太子との合戦に敗れた物部守屋[もののべのもりや]の子孫だという伝承もあります。聖徳太子も鹿も、いろいろとつながっていますね。