――いまのお話ともつながると思うのですが、たとえば教会のパイプオルガンが鳴るだけで荘厳な雰囲気になるみたいに、ある音によってその場の空気というか、場そのものがつくられることってありますよね。

 空間や時間とも非常に絡んできますね。音だけを取り出してという話じゃないと思うんです。私はもともと作曲や作曲家のことが面白いなと思って何十年か考えてきたんですけど、いつの間にか興味が「場所」に移っていて。あまりうまく言えないんですけど、場所で音がどう立ち上がるかという問題がね、気になる。

 音源は同じでも、それが教会で鳴るのか、こういった部屋なのか、それとも路上なのかで、その聞こえ方は変わってくるわけです。空気だったり、部屋のレイアウトや壁の素材だったり、あるいは、その場にいる人の数によってもぜんぜん違う。だから、ものすごくいろいろなパラメーターがあって、ぜんぶを捉えきることはとてもできないけど、それが面白いなと思うんです。

 場との関わりということでいうと、いま言われた教会のパイプオルガンなんかは典型的ですよね。あの場所から持ち運べない。つまり楽器と建築物が一体となっている。教会の建物自体が楽器なわけです。

――それは面白いですね!

 一方で、オスマントルコとかムガル帝国の絵画を見ると、宮廷で楽器を弾いている人たちの周りで王侯貴族がくつろいでいるような絵ってありますよね。 あれはやはり暑い地方だからだと思うんですけど、コンサートホールのような閉じた空間ではなく、風通しの良い、開放的な空間の中でBGM的に音が鳴っている。そういうものと、荘厳さを演出する教会の音楽とは別物です。だから音楽をどう利用するかというか、聞き手にどう作用させるかによって音の立ち上げ方は変わってくるし、そのときに場所が非常に重要になってくる。

――いまは音楽を自宅のオーディオで聴いたり、スマホからイヤホンで聴いたりがふつうになっているので、音楽がそれ単体であるかのように思っちゃいますけど、もともとは当然、演奏される場所と不可分のものだったわけですよね。

 音楽はずっとその瞬間、その場限りで消えるものだったのが、19世紀以降の録音技術によって、その場から持ち出して聴けるようになった。作曲家の三輪眞弘氏はそれを「録楽」という言葉で表現しています。じゃあ録音したものは音楽じゃないのか、という問いももちろんあるんだけど、たとえば多重録音のように、録音技術が生まれたからこそつくれるようになった曲もある。「録楽」という言葉があることで、そういうことも見えてくると思うんですよね。作業仮説として録楽という考えは大事じゃないか。

――録音技術によって、音楽というものへの問い直しが起きたと。

 はじめの頃は単に本物とニセモノと言っていたし、今でもそう言う人はいます。でも、繰り返しになりますけど、多重録音のようにスタジオでしかできないものもあるわけです。多重録音って物理的には音が重なっているということなんですけど、そこでは実際に人が演奏しているんですよね。たとえばビートルズの最後の方の曲は、メンバーが別々にスタジオで演奏し、それを録音して重ねている。それは音だけじゃなく、一人ひとりの時間を重ねているわけで、つまり、違う時間が一つになっていると捉えることもできる。

 詩人の吉増剛造が、「二重露光」という手法で写真を撮っていて、それは何かというと、一度撮り切ったフィルムを全部自分で巻き取る。24枚撮りのフィルムなら24枚撮って巻き取り、それをもう一度カメラに入れ直して撮る。するとたとえば、沖縄の海の上にカナダの冬山が重なった写真ができるわけです。場所も時間も違うものが一枚の写真になる。それと同じようなことが、録音技術によってできるようになったわけです。

――それは本物とかニセモノというのとは違う次元ですよね。

 もう一つ面白いのは、19世紀から20世紀にかけての時代って、医療技術の進歩のおかげで人が生き延びることが多くなりました。さらには、サイボーグみたいに死なない人間という概念が出てきた。そのことと、必ず消えていく、死んでいくものだった音が残せるようになったというのは、もしかするとパラレルだったのかもしれない。

場所がもつ意味

――場所との関係ということで言うと、音楽と風土というのも面白いテーマだなと思いました。楽器一つとっても、その地域の植物や、そこに生息する動物の皮なんかを使って作るでしょうから、音にも自ずと違いが出てきますよね。

 各地域の音楽というのはそういうふうにしてできてきたんですけど、人や物は移動するので、そこでまた変化が起きるということもあります。その楽器を作ろうとしたけど、同じ木がないから別の木で作ったり、合わなくて割れちゃったりとか。

 有名な話ですけど、作曲家の武満徹が『ノヴェンバー・ステップス』という和楽器を取り入れた楽曲を初演するにあたってニューヨークに琵琶を持ちこんだところ、アメリカは日本よりも相当湿度が低い。しかも冬だからさらに乾燥していて琵琶が割れそうになった。あわてて店からキュウリやナスを買ってきて琵琶に貼り付け、なんとか事なきを得た、ということがあったそうです。

――コンサートの裏にはそんな苦労もあるんですね。

 それに、さっきも言いましたけど、湿度や建物の構造が変われば音の鳴り方、伝わり方も大きく変わります。お客さんがいるかいないかでも条件が変わるので、演奏者はいろいろ気を遣っていますよ。クラシックのコンサートなんかだと、PA(=音響機器)で調節するわけでもないから、リハーサルと本番では譜面台の位置を変えたりもしています。雨が降ると音が響かなくなるので、もっと大変ですね。傘やレインコートが客席にはいってくるし。

――なるほど。いままで音楽というと、たとえばベートーヴェンの『第九』なら『第九』はどこでも同じように演奏される普遍的なもののイメージでしたが、実際には一度として同じ演奏はないわけですよね。考えてみれば当たり前のことですけど。そこは、いつでもどこでも同じように読める小説なんかと違うところですね。

 私は小説でも、あるいは絵画でも同じではないと思うんです。音楽から考えていくと他のジャンルのものも違って見える、つまり、時間や空間の中に位置づけて見られるようになるのではないでしょうか。ある文学作品を雑誌の連載時に読むのと、単行本で読む、あるいはiPadやkindleで読むのとでは、テキスト自体は同じでもやっぱり違います。メトロのなかで読むのと、リゾートで読むのとも違う。

 絵画でいえば、画家はその絵がどこに飾られるか、光がどの方向から入ってくるのかということをすごく意識して描いています。すくなくともそういう画家はいた。近代までの西洋の絵画は、貴族や教会から発注されて描かれたものが多いので、この家のこの場所だからこうしようといった意図が作品に込められている。それを、その場所から取り外して美術館に展示する、さらには別の国に持って行っていったりすると、それがいけないわけではないけど、やっぱり違うものにはなるでしょう。

――いまのお話で思い出したんですけど、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は修道院の食堂に描かれていて、そこで日々食事をする修道士たちに、自分も「最後の晩餐」に参加しているような錯覚を与えるためのものだったそうですね。だとすると『最後の晩餐』は本当にその修道院の、その場所にあって初めて意味が分かるものだなと。

 近代になると作家の表現が強くなってきますけど、それより前は職人的というか、依頼主の注文に合わせてつくるということだったようです。でも「注文に合わせて」というのは言われた通りにやればできるということではないので、そこにつくり手がどう介在してくるのかっていうのが面白いところではないでしょうか。