――西洋絵画の話が出ましたが、日本では音楽も「西洋のもの」というイメージが強いですよね。そのヨーロッパの人びと――というくくりも大雑把ですが――は音楽をどういうものとして捉えているのでしょうか。

 海外の作曲家やクラシックの演奏家たちの話を聞くと、自然の中にいて、木々をわたる風の音だったり、小川のせせらぎなんかを聞いてるのはいいよねと言います。でも、あれは音楽ではない、と。西洋の小説を読むと、「風が奏でる曲」みたいな表現も出てきますけど、それは多分メタファーです。だから私たち――と言っていいのかどうかはわかりませんが――がそういった自然の音もある種の音楽だと思っているのとは、どうやら違うみたいです。彼らにとっての音楽は、おそらく一神教的なものだと思うんですよね。つまり創造、クリエイトされたもの。

――自然にあるものではなく、人が創り出したものだと。

 人、あるいは神が創ったもの。つまり「作品」ですよね。それでいうと風が吹くのも神によるもののような気もしますが、どうも音楽にはカウントしてないようです。

 音楽史とか音楽思想史をちゃんと研究している人がどう考えているのかはわかりませんけど、私は、ギリシャ神話の世界観とか音楽観というものがまずあり、そこからローマ帝国やキリスト教社会の音楽観がつくられていったのではないかと思っています。

――とおっしゃいますと?

 ギリシャ神話には音楽や詩、歴史といった文芸を司る神として、「ムーサ」とか「ミューズ」と呼ばれる9人の女神がいて、それがmusicやmuseumの語源になっています――そういう意味では音楽と詩や美術というのは兄弟姉妹であり、共感覚的なものだったと考えてもいいかもしれません――。中世になるとそこにキリスト教的なコスモロジーが入ってきて、宇宙や世界を構成する秩序のことを「ムジカ・ムンダーナ」、つまり「世界の音楽」と呼ぶようになる。「ムジカ」がラテン語で音楽という意味です。ムジカ・ムンダーナの下には、人間の行為や身心の状態を司る「ムジカ・フマーナ」があり、いちばん下にあるのが「ムジカ・インストゥルメンタリス」で、これが実際に聞こえる音楽、といったふうに階層構造をとるようになります。

――なんだかややこしくなっていったんですね……。

 ただ、これはインテリの頭の中の話であって、一般の人びとにはあまり関係がなかったのではないでしょうか。音楽史に限ったことではありませんが、学術的には史料として残っているもので判断するので、どうしても特権階級やインテリ層の音楽観が中心になってしまう。それが学問をすすめていったわけで一概に否定はできませんけれども。民衆の中にも当然音楽はあって、それ自体はあまり変わってないような気もするんです。学問的に立証するのは難しいけど、基本は楽しいとか、みんなで盛り上がるといった、エンターテインメントとしてあったはずですから。教科書にはそういうことは書かれていない。実証できないですから。先生たちが口で補っているかどうかはわかりませんが。

――なるほど。

 でも、民衆にとっての音楽がそういうものだったからこそ、逆に教会的な、秩序付けられた音楽に対して畏怖の念があったのかもしれません。自分たちにこういうのはできないな、と。そういう感覚を持つのは大事だと私は思っていて、しっかりとつくり込まれたものに対して、好き嫌いとは関係なく、価値を認めるというか。そういう感覚が音楽を「つくられたもの=作品」として見るかれらの音楽観にもつながっているようにおもえます。

『4分33秒』

――ジョン・ケージの『4分33秒』を初めて知ったときには面白いことを考えるなと思ったんですけど、あらためて考えてみると、なんか理屈っぽいような気もして。これまでの音楽へのアンチテーゼというか、概念としては面白いけど、コンサートで実際に「演奏」されたときにどう感じるのかがちょっと想像できないんですよね。

 むしろ理屈じゃないと思ったほうがいいんじゃないですか。

――そうなんですか?

 非常に象徴的なのは、4分33秒という時間の枠組みが設定されてることです。それがさっきお話した「音楽=作品」であることの証拠にもなっている。あの作品の意図はいま・ここで起きるすべての音を聞くということですけど、音は私たちのまわりにいつだってあるじゃないですか。

……いま電車が通りましたよね。カメラのシャッターを切る音がした。エアコンの動作音……。これらはぜんぶ、いま・ここでしか聞けない音です。そういった音をどうやって聞くかなんだけど、人の集中力はそんなに続かないので、4分33秒って結構ぎりぎりの時間だと思いますよ。

――たしかにそうかもしれません。

 すべての音を受動的に「聞く」――能動的に「聴く」のではなく――、スポンジみたいにぜんぶ受け入れるっていうのはものすごく難しい。人はアタマで何か考えちゃうんですよね。ちょっとおなか減ったなとか、そういえばあの仕事どうしようか……なんて考えちゃうと、もう音は聞いてない。聞くってことは実は大変なんです。

――あれは「聞く」の方なんですね。

 私も、ずっと「聴く」だと思っていました。でも、そうじゃないなと気づいた。たとえばコンサートで『4分33秒』をやりますといって演奏者が舞台に出てくる。そして何もしない。そのとき、たまたま自分の近くにいる人が頭を掻いた。その音を「聴く」ことはできないですよね。それが聞こえる、耳に入ってきちゃうのが『4分33秒』という作品なんです。

――「聴く」ときはある程度身構えているというか、次にこういう演奏があるはずだからそれに向かって集中するという感じがしますね。それに対して「聞く」の方は偶発的というか、いつどこで鳴るのかわからない音に対して耳を、あるいは体を開いている状態というか。

 「聴く」と「聞く」って英語だとリッスン(listen)とヒア(hear)、フランス語だとエクテ(écouter)とアンタンドゥル(entendre)なんですけど、韓国語にはその区別がないらしいんですね。以前講義で『4分33秒』の話をした後に、韓国からの留学生がレポートで教えてくれました。彼は1カ月に1回くらいは実家に電話をするらしいのですが、この前親としゃべっているとき、実家で飼っている猫がうしろで鳴いているのを聞くとはなしに聞いていた。そういう表現ができるようになったと書いていて、あれはよかったですね。私じしんが学べた、教えてもらった、と言いますか。