仁和寺の僧の踊り

 前回は、一遍上人につき従う僧たちが念仏踊りをする話でした。しかし、僧侶が踊るとなると、最も有名なのは『徒然草』五十三段が描いている仁和寺の坊さんの失敗譚でしょう。

 寺の稚児が、髪を切って僧となるというので名残りの宴会が開かれた際、酔ってはしゃぎすぎた僧が、かたわらの鼎[かなえ]を頭にかぶって踊り出したため、一同は大いに面白がったものの、抜けなくなって大騒ぎとなり、最後は藁しべを隙間に挟み込んだうえで無理に引き抜いたところ、耳も鼻ももげてしまって長らく病んだ、という話です。

 中世の寺院には、貴族などの子供が稚児として入り、経典や中国の古典や和歌などを学ぶほか、蹴鞠や歌舞などの芸事も習っていました。彼らは、延年[えんねん]と呼ばれる寺院での芸能の催しの際は、化粧をして華美な衣装で踊ったのです。

 いろいろ制約が多い寺院生活において、稚児たちの踊りは一番の娯楽でしたので、美しい稚児などは大人気となってアイドル扱いされました。美少年讃美の風潮が盛んな時代ですので、美しい稚児の噂が他の寺にまで伝わり、その寺から「あの稚児を派遣して踊りを披露せよ」という要望が出されたり、武力で奪いに来たりすることすらあったほどです。

角三つ生えたる鬼

 『徒然草』の上記の逸話については、「坊さんが浮かれて鍋をかぶって踊り出し、失敗した話」と受け取られがちですが、大事なのは、鼎をかぶって踊った、という点です。鼎というのは、三本足の煮炊きする金属製の道具であって、中国では古代から実用として、また祭祀の道具として使われてきました。日本でも、『日本書紀』にはしばしば登場しており、古くから用いられていたことが分かります。

 なぜそうした鼎をかぶったのか。それは、後白河法王(1127-1192)が編纂した『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』中の有名な今様、

我を頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人にうとまれよ

霜雪霰[あられ]降る水田[みずた]の鳥となれ さて足冷たかれ

池の浮草となりねかし と揺りかう揺り 揺られ歩け

を歌うためであったと推定されています。「私にあてにさせておいて、やって来ない男よ。角が三本生えた鬼になれ。そうして人々に嫌われろ。霜・雪・霰が降る水田の鳥になれ。そうして足が冷たくなれ。池の浮き草となってしまえ。こっちにゆらゆら、あっちにゆらゆら、揺られながら歩け」という歌であって、振られた女性による悪口づくしです。

 ただ、大げさすぎて滑稽な感じのする歌ですね。冒頭の仁和寺の僧は、三本足の鼎をかぶり、まさに「角三つ生ひたる鬼」の姿となって、冬の田の水を冷たがる鳥の真似をし、ゆらゆら揺れる池の浮き草の真似をしたため、大受けに受けて喝采を浴びたのでしょう。

 角が三本生えた鬼というのは、本当にいるのかどうか不明です。インドでは、額にも目があるとされるシヴァ神をはじめ、恐ろしい鬼神である夜叉[やしゃ]の場合も三眼で描かれることがありますので、それと混同したのかもしれません。

踊る僧侶

 最初期のインド仏教では、僧侶が踊ることはおろか、歌舞などの芸能を見ることも禁じられていました。後になると、釈尊の誕生日の祭りなどの際、釈尊やその弟子の生涯を芝居にしたものが演じられるようになりましたが、律(出家者が守るべき教団規則)に後に加えられた部分では、在家の信者が一緒に見ましょうと誘いに来たら、そうした芝居は見ても良いが、欲望をかきたてるような場面があったら、その場を立ち去るよう命じています。

 釈尊の生涯にそうした場面があるとは考えにくいところですが、釈尊はまだ悉達[しっだ]太子と呼ばれていた頃から出家修行を望んでいたため、後世の仏伝によれば、父王が魅力的な美女たちに太子を誘惑させてこの世の歓楽を覚えさせ、妃をめとって後継ぎを作らせようとしたとされています。

 また、出家した太子が森の中で坐禅していると、魔王がそれを邪魔するために三人の娘を送りこみ、少女、新妻、熟女の姿で誘惑させたものの、太子は女たちを退けた、ということになっています。おそらく、そうした場面が芸人たちによって色っぽく演じられ、聴衆をはらはらさせ、喜ばせたのでしょう。

 ただ、「六群比丘[ろくぐんびく]と呼ばれる不品行な僧たちは、ものまね芸を含め、様々な芸能をやって遊んでいたようです。仏教関連の劇を演じる芸人たちと対立した六群比丘は、芸人たちの舞台の近くで、芸人の格好をして楽器を達者に演奏し、楽しい芸能を演じて芸人たちの客をさらってしまったため、芸人たちが釈尊に訴えた結果、釈尊は、僧侶が歌舞や芝居をしてはならないと命じ、それが律の条項に取り入れられた、という伝承もあります。

 律で禁止されるということは、やる者たちがいたということです。「駐車禁止」などといった看板が多いのは、実際には違反駐車をする人が多いことを示すのと同じですね。踊らないまでも、芸能のように情緒たっぷりに経典を詠ずる僧たちはかなりおり、禁止する派が多かった一方、教化のためとして認める派もあったようです。

 玄奘三蔵が学んだ北インドのナーランダ寺院などでは、夕方になると唱導師と呼ばれる声の良い僧が、仏陀を讃え、無常を説いた経典を節をつけて唱えながら寺院内をめぐるのが常であり、特別な待遇を受けていました。

芸能者のような僧

 宗教儀礼が華やかになって芸能化したり、宗教性を失って遊びとなったりすることは、どの国でも見られることです。中国の唐代では、」「俗講[ぞくこう]」と呼ばれる一般信者向けの経典解説がなされており、芸能化が進んでいきました。

 その代表者は、9世紀中頃の文淑[もんしゅく]という僧です。文淑は、抑揚を付け、美声で経典を吟じて聴衆を感動させる一方で、経典の解説の形で「淫穢鄙褻[いんえひせつ]の事」、つまり、下ネタを次から次へと語って大人気となっていました。

 批判もあったのですが、聴衆が雲集し、多額の布施がもたらされたため、寺では「和尚」と呼ばれて尊重された由。ただ、宮中にまで呼ばれるようになったため、反発が強まったのか、罪に問われて地方に流されるに至っています。

 寺院では、仏教を素材とした芝居も演じられており、長安の大寺院のそばの芝居小屋では、仏教由来の芝居や、その影響を受けた形で中国の有名な故事の芝居が演じられました。近世以後の日本で言えば、浅草寺の回りに芸能小屋や寄席などができたようなものですね。

 そのような状況の中で、僧とも芸人ともつかない達者な下級僧たちが活躍するようになります。日本では、中世には「遊僧」とか「狂僧」と呼ばれており、「道の僧」という呼び方もありました。中国では「戯僧[げそう]」と呼ばれる者たちがいたことは知られていますが、寺の日記などがたくさん残っている日本と違い、実状は良くわかりません。

 狂僧は、興福寺などでは、厳粛な法会の後で行われる延年において、稚児を舞台に導き、舞を舞わせるのも役目の一つでした。この役目は、後には「舞催[まいもよおし]」と呼ばれる僧が担当するようになりましたが、舞催は僧侶でありながら大きな立烏帽子[たてえぼし]をかぶるのが特徴です。

 この立烏帽子は、お能の狂女物では、女性のシテ(主人公)が神がかって舞う際に身につけるかぶり物です。つまり、舞催も、その前身であった狂僧も、普通でない衣装を身につけ、演者と聴衆の興奮をかきたてる役目をしていたのです。

 こうしてみると、仁和寺の僧が、稚児のための酒宴において鼎をかぶって滑稽な踊りを披露して座を盛り上げたのは、単に酔ってはしゃぎすぎての行動というだけでなく、仏教における長い芸能の伝統にのっとっていることが分かりますね。