明治時代の禁止布告

 前回は、お盆に関する話でした。お盆と言えば、お墓参りや盆踊りということになりますが、実は明治初年には盆踊りを禁ずる布告が各地で出されていました。現在、盛大な行事となっているのは、その後、復興したおかげなのです。

 明治政府は当初は神道を国教としようとしていたため、神仏習合の伝統を嫌って神仏分離を推し進めました。そうなれば、神社の境内で仏教行事である盆踊りをすることなどは好ましくない、ということになります。

 また政府は、西洋諸国から野蛮と思われそうな風習、たとえば、男女の混浴、入れ墨、戸外での裸体などを禁じました。つまり、今日の軽犯罪法に当たるような規則を地方ごとに定めさせ、風俗の改良をはかったのです。

 このため、盆踊りが禁じられた地方が少なくありませんでした。理由としては、夜間に男女が多数集まる、裸体になったり異様な格好をしたりする、楽器などをうるさく鳴らす、踊り回って騒ぐ、などがあげられており、風紀に悪いとして批判されています。

 しかし、こうした点こそがまさに盆踊りの魅力なのですから、各地で反発が起きたのは当然でしょう。そのためか、阿波踊りで知られる徳島では、明治4年(1871)に、明治維新以後、禁止されていた盆踊りを本年から明治7年(1874)まで、それも旧盆の7月14・15・16日の三日三晩に限って許可する、という布告が出されています。

 また徳島では、旧暦ではなく、太陽暦に従うべきであるとしたうえで、神武天皇の即位の日を建国の日とした紀元節、明治天皇の誕生日である天長節には踊ることを許したものの、盆踊りのようには盛んにならなかった由。官製のお仕着せでは盛り上がらなかったのも無理ないですね。

 規制された結果、盆踊りは自体は存続はしたものの、歌われる歌詞のうち、猥雑な部分を改めるといった対応もなされました。祭礼でのおかめとひょっとこの猥雑な舞のような形で、面白おかしく即興で唄われていたものが、よくある無難な歌詞に変えられたのです。

「盆踊り」の起源と展開

「盆踊り」という言葉がいつできたかは不明です。現在のところ、春日神社の神官であった中臣師淳[なかとみもろあつ]が書き記した『春日権神主師淳記』の明応6年(1497)7月15日条に「盆の踊り」とあるのが早い例であって、以後は「盆踊」という形がいろいろな文献に見えるようになります。

 ただ、「盆踊り」という言い方をしていなかった地方も多く、念仏踊り、田植踊り、風流踊り、仕組み踊り、灯籠踊り、やすらい花、花笠踊りなど、呼び方は多様であり、形も輪になって踊るタイプやら列を作って進むタイプやら様々です。

 面白いのは、このうちの仕組み踊りです。「仕組み」とは趣向のことであって、毎年、新しい趣向を考え、衣装や持ち物について工夫をこらして唄い踊るのですね。小倉県(現在の福岡県)では、明治6年(1873)に仕組み踊りの禁止令が出ています。おそらく、毎年、衣装や踊り方の工夫をこらすリオのカーニバルの小型版のような派手な歌舞がなされていたんでしょう。小倉も阿波同様、祭りの盛んな土地ですからね。

 盆踊りが、市聖[いちひじり]と呼ばれた空也や、その空也を敬慕して時衆(宗)の祖となった一遍上人の念仏踊りに基づくことは通説ですが、呼び方が多様なのは、それが各地の習俗と結びつき、独自の展開をしたためです。

 踊り念仏では、初めは仏像の回りをぐるぐる回る行道[ぎょうどう]のような形で、鉦[かね]などを鳴らしつつ念仏を唱えながら輪になって進んでいたのですが、経典に「歓喜踊躍[かんぎゆやく]」とあるように、阿弥陀仏の浄土に迎えていただける嬉しさのあまり、恍惚状態となって飛び跳ねたり、足を踏みならしたりして踊るようになったのです。

 ですから、古い記録には「念仏躍」という表記をしているものもあります。皆なで歌い、飛び跳ねて陶酔するというのは、現代のロックのコンサートと同じですね。

 床を激しく踏みならして音をたてるのは、古代から邪気を鎮める行為とされていますので、念仏踊りにはそうした効果も期待され、戦死者などの鎮魂としても行われたようです。そうした踏み方をすることを「だだを踏む」と言います。機嫌を悪くした小さい子が泣いて足をバタバタさせることを「駄々をこねる」というのは、ここから来たものですね。

 この念仏踊りを人が多く集まる市などで演じてみせ、浄土信仰の世界に導くために、やがて屋根と柱と床だけであって回りから良く見える櫓[やぐら]が作られ、その上で僧たちが念仏踊りをするようになりました。

 この念仏踊りと結びついたのが、平安時代に生まれ、南北朝頃から全国的に大流行するようになった「風流[ふりゅう]」です。著名な故事などに基づき、趣向をこらした飾りや衣装を身につけ、楽器で囃しつつ唄い踊りながら街頭を練り歩く風習です。このため、念仏踊りは次第に芸能化してゆき、また逆に風流やその他の芸能に影響を与えました。

踊る際の動き

 興味深いのは、『一遍上人絵伝』に見える念仏踊りが、実は現在の盆踊りの踊り方に似ていることが明らかになったことでしょう。湘南工科大学の荒木宏允氏・谷田部竜氏・長澤可也氏が2016年に情報処理学会の雑誌に寄せた「国宝「一遍上人絵伝」に描かれる踊念仏の踊りのシーケンスを復元」が、そのことを論証しています。

 一遍上人の念仏踊りは、弘安2年(1279)に、信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)の小田切の里で上人が同行の僧たちと念仏を唱えていた際、自然に始まったとされています。その前年には、蒙古が二度目の来襲をしていますので、社会不安が大きく、浄土往生の願いが高まっていた時期ですね。

 『絵伝』ではその時の場面と、弘安5年(1282)の相模国片瀬の浜(神奈川県藤沢市の片瀬海岸)での念仏踊りが取り上げられており、後者では櫓が組まれていて、その上で上人と僧たちが踊っている様子が描かれています(下図参照)。

円伊「一遍聖絵」第7巻 四条釈迦堂(部分)

 この場面では、手の振り方や足のあげ方などは人それぞれであって、揃って踊っているようには見えないのですが、手に鉦[かね]を持っている僧たちがいるため、それを打ってタイミングを合わせて念仏を唱え、踊っているはずです。

 そこで荒木氏たちのチームは、全身が見えている10人の僧たちのポーズを3D化し、描かれている順番に並べてみたところ、一連のスムースな動きとなった由。つまり、ばらばら勝手に踊っているように見えたのは、踊りの流れのうちの特定の動きを、それぞれの僧のポーズとして割り振ったためだったのです。

 さらに面白いのは、同じ側の手と足が同時に前に出る踊り方をしていたことが分かったことでした。これはまさに現在の盆踊りの基本の形であって、阿波踊りもこの方式ですね。

 国宝の『一遍上人絵伝』は、正安元年(1299)に、一遍の弟子である聖戒が詞書を書き、画僧の円伊が上人が旅した道をたどりながら描いたと伝えられており、写実性は高いと考えられています。このため、荒木氏たちの論考では、円伊は踊りの仕方を保存し、後世に残すことを意識して描いたと推測しています。

 この踊り方が700年後にも残り、ロック音楽に合わせて踊る盆踊り大会まで開催されるようになろうとは、円伊も予想していなかったことでしょう。