「大笑い」する仏
前回は、仁和寺の僧が酒宴で鼎[かなえ]をかぶって滑稽な踊りをするという話でした。「満座興に入る事限りなし」と記されていますので、その席にいた者たちは大笑いして喝采したことになります。日本で仏教と言うと、「祇園精舎の鍾の声、諸行無常の響きあり」で始まる『平家物語』が有名すぎるため、暗いイメージがあるのですが、仏教は実は笑いと関係が深く、経典にも笑いに関する記述がたくさん出てきます。
しかも、「大笑」という言葉も良く見られるうえ、それをさらに強調した表現すらあるのです。たとえば、玄奘三蔵が訳した『十一面神呪経』は、十一面観音のダラニ(呪文)を説いた経典であって、その像の造り方を説いた箇所では、前の三面は慈悲の相に作り、左側の三面は瞋怒[しんぬ]の相に作り、右側の三面は白い牙が上に出ている相に作り、後の一面は「暴悪大笑相[ぼうあくだいしょうそう]」に作り、頂上の一面は仏の顔に作る、と説明しています。
「暴悪大笑相」とは、まさに大爆笑している様子のことです。「大笑相」だけであれば、用例はかなり多く、密教の菩薩に関して言われる場合がほとんどです。仏について「大笑」の語を用いている例も僅かにありますが、仏の場合は「微笑」という表現を用いるのが普通であり、この言葉は仏の笑いを表現するために漢訳の際に作られたものであることは、この連載でも以前書きました(第26回参照)。
その原語は、多くの場合は「ほほえむ」という意味の動詞の語根のsmi や、その名詞形である smita などです。「声をあげて笑う」という意味の動詞の語根のhās やその名詞形が仏について用いられていても、「微笑」と訳されている例がありますが、これは「仏は上品にほほえむものだ」というのが常識になってしまったため、慣習に従って「微笑」と訳したのでしょう。
投げ縄で引き寄せる強引な阿弥陀仏
ただ、仏菩薩を身近な存在と受け止める傾向があった日本では、仏が面白がって笑っている絵も存在します。平安時代の戯画の傑作である「紙本白描阿弥陀鉤召図[しほんはくびょうあみだこうちょうず]」です。この図は、蓮華座に腰掛けた阿弥陀如来が、盲目のように見える老僧の首に投げ縄をかけて引き寄せようとするものの、老僧が地面に座り込み足を踏ん張って抵抗するため、笑いながら強引に引き寄せようとしている様子を描いたものです(参照リンク)。「白描」というのは、着色せず、墨の線だけですっきり描いた絵のことです。
この絵では、極楽浄土への導き手とされる観音菩薩が困った顔で、老僧の背中に大きな蓮華の茎をあてがい、阿弥陀如来の方に押しやろうとするのですが、上を向いて目を閉じている老僧は表情は嬉しそうでありながら必死で抵抗しており、その様子を、阿弥陀如来の右側にいる勢至菩薩が指を指し、大笑いしながら眺めていいます。
おそらく、この老僧は日頃から、「南無阿弥陀仏、どうぞ極楽浄土にお迎えください」と祈っていたのでしょう。ただ、この絵の仏は、臨終時に白い雲に乗って迎えにきてくださる普通の阿弥陀仏ではなく、羂索[けんじゃく](投げ縄)によって人々を救いとる不空羂索観音[ふくうけんじゃくかんのん]と同様、羂索で人々を浄土に引っ張り込む密教の強力な阿弥陀仏であるため、「極楽往生がしたいのだな。さあ、来い!」と引っ張ったのでしょう。
それに対して老僧が抵抗しているのは、「いや、往生はしたいのですが、今はちょっと事情があるため、できれば3年くらい後にお願いします」といったことなのでしょう。実に楽しい絵です。この絵の裏には、平安時代の末に密教図像の収集や模写に努めた高野山の玄証(1146-1204?)が墨書きしているため、それ以前に描かれていたことが分かっています。
面白いのは、抵抗する老僧は地面に腰おろしたままずるずると後ろずさりし、それを阿弥陀如来がまた引っ張り戻したためか、老僧の足もとの地面に二本の線がその跡として描かれていることです。これは、かの有名な「鳥獣戯画」で高飛びをしようとする猿の後ろに、走っている様子を示すため、現代の漫画ではスピード線と呼ばれる線を何本も描いていることを思い出させるものです。こうしたこともあって、この白描図は、漫画の起源の一つとも呼ばれているのです。
紫式部も抵抗するタイプか
問題は、先に触れたように、極楽浄土にいる阿弥陀如来が羂索で引っ張ってくれているのに、老僧が抵抗していることです。こんなことはあり得ないように思われますが、極楽往生を願いつつ、先延ばしにしつづけた有名な人物がいます。
それは、1000年前後に『源氏物語』を書き、現在、NHKの大河ドラマで主役となっている紫式部(生没年不明)です。式部は『紫式部日記』では、本当は阿弥陀仏にすがってお経を読誦したいのであって、世の中のことは「露ばかりも心もとまら」なくなったため、出家しても怠けることなど考えられないが、「雲にのぼらぬほどのたゆたふべきやうなむ侍るべかなる。それにやすらひ侍るなり」と述べています。
出家したとしても、それ以後、臨終時に来迎[らいごう]してくださる阿弥陀仏の雲に乗るまでの期間に、気持ちがゆれ動くに違いないことがあるようですので、そのため、出家をためらっているのです、というのです。
これはおかしいですね。世の中のことはまったく気にしなくなったのであれば、出家して後に気持がふらつくようなことはないはずです。しかし、式部は夫には死別したものの、娘もいましたし、年取った父親もいましたので、実際には気になることが多かったことでしょう。宮中で女房務めをしている以上、他の女房との衝突などもあったでしょうし。
『源氏物語』では、光源氏も薫も、早い時期から出家したいと公言し、しばしば高僧や出家した貴族のもとを訪れて話を聞き、出家したいと述べておりながら、二人とも最後まで出家しませんが、式部自身もそうしたタイプだったのでしょう。
その式部は、『紫式部日記』では、自分から進んで憎らしいことをして失敗した人については、「いひわらはむに、はばかりなうおぼえ侍り」と述べています。そんな人については、嘲笑するのに遠慮はいらないと考えています、というのです。世の中のことはまったく気にならなくなった、という言葉はどこへ行ったのでしょう。
式部はこの少し前の部分では、「慈悲深い仏でさえ、三宝(仏・法・僧)をそしる罪は浅いなどとお説きになったでしょうか。まして、こんなに濁り深い世間なのですから、やはり薄情な人には薄情に応対するに違いありません」と述べています。世の中のことはまったく気にならなくなったのではなかったでしょうか。
私は、紫式部が『紫式部日記』を執筆していて、阿弥陀仏にすがりたい、世の中のことは露ほども気にならなくなったと書いたところに阿弥陀仏が現れ、「阿弥陀鉤召図」のように投げ縄で式部を引き寄せようとしたら、式部はあの老僧のように抵抗し、阿弥陀如来や勢至菩薩に笑われるであろう方に賭けますね。