八卦の陣の「完成」
『太白陰経』9巻には『三国志演義』に描かれる「八卦の陣」に通じる「奇門遁甲」と「八門」の関係が記されています。鬼門遁甲とは、古代中国の伝説の王・黄帝が天から授けられたとされる占術で、占いに用いる遁甲盤上に、それぞれ吉や凶の意味を示す開門、休門、生門、傷門、杜門、景門、驚門、死門の八門を配置します。
この奇門遁甲の根本にあるのは、天を9つの区域に分割し、星の動きで占う占星術の九宮です。九宮は『洛書』に記された九数図に基づいています。「洛」とは洛水という黄河の支流で、九数図とはその水面に浮かび出た神亀の背中に描かれていた9つの模様を図形化したものです。この九数図は数字の5を中央に配し、縦横斜めの和がすべて15になる魔方陣として描かれました。全体の形としては、先述した『李衛公問対』の「井の字型の陣形」と似ています。
ちなみに、三国志史上に名高い赤壁の戦いを映画化した『レッドクリフ』では、諸葛亮が八卦の陣を布いて敵兵を翻弄するシーンが描かれますが、その陣形は亀の背に現れた九数図になぞらえていました。
『太白陰経』では、九数図の魔方陣における1の場所を坎宮(北)で休門、2の場所は坤宮(西南)で死門、3を震宮(東)で傷門…と配当し、それぞれの吉凶と用い方が記されています。たとえば、「悪を避けて匿れるには、杜門を背にして開門に向かうのが吉」といった具合です。こうして、唐の時代に著された『太白陰経』の著者・李筌によって、初めて諸葛亮の八陣と占星術を基にした八門が結びつきました。
ただし、この時点ではまだ、完全な統合を果たしていません。『太白陰経』の八門はすべて軍事に結びつけられているわけではなく、『三国志演義』の八卦の陣とは意味づけが異なります。八陣と八門、八卦をすべて結合させたのは、北宗時代の進士・許洞(きょどう)による兵法書『虎鈐経(こぎんきょう)』です。この兵法書には丸みを帯びた方陣の八門と、奇門遁甲の八卦が組み合わされた「八卦の陣図」が描かれています。これによって宋代には八陣が奇門遁甲の八卦に基づくものと認識され、諸葛亮の八陣が八卦の陣へと変容を遂げていくのです。
1200年代、宋代から元代に移ると三国志を口語体の通俗歴史小説とした『三国志平話』が登場し、諸葛亮は「神仙」つまり神通力を有する人物として描かれます。これに続いて登場したのが冒頭に述べた羅貫中の『三国志演義』で、ここに至って諸葛亮は神算鬼謀の軍師となったのです。
先に紹介した毛宗崗の『三国志演義』には、諸葛亮が五丈原の戦いで八卦の陣を布く場面が登場します。相対する司馬懿はそれを八卦の陣と見破り、「真東の生門より入り西南の休門から出て、真北の開門より再び入れば陣を破れる」と教えて3名の部下に突撃させますが、諸葛亮の八卦の陣は静的ではなく動き回るものであったため、どこが生門でどこが開門かがわからなくなり、「3名は陣から出られず捕虜になる」という記述です。毛宗崗の『三国志演義』は非常に多くの人に読み継がれたため、諸葛亮の鬼神的な人物像はこの本によって印象づけられたと言えます。
神にされた諸葛亮
ここまで見てきたように、諸葛亮の八陣は『李衛公問対』で変容した方陣の八陣を基本に、『太白陰経』で奇門遁甲に基づく八卦、八門の考え方になり、これが『虎鈐経』で八陣と完全に組み合わされ、八卦の陣となりました。
ここで注意しておきたいのは、諸葛亮の八陣から八卦の陣への変容は、単に史実を物語として分かりやすく広めるためにつくられたものではないということです。そこには漢民族の置かれた状況の変化が大きく関与しています。すなわち、三国鼎立時代から晋、唐、宗と時代が進むにつれ、漢民族の中国は異民族からの襲撃に耐え切れず、軍事思想の変容を余儀なくされたのです。
唐の時代以降の兵法書には、孫子の兵法を伝える一方で占いや呪術を用いた兵陰陽の記述が目立つようになりました。兵陰陽は合理的、論理的な孫子がもっとも忌み嫌った兵法です。諸葛亮も、武器のつくり方、使い方を記した命令書など残された資料を見る限り完全に「理系」の人物で、兵陰陽の思想は史書からはまったく見られません。その諸葛亮像が、時代を経るにつれ兵陰陽家へと仕立てられていった理由は、歴史的な中国軍の弱体化にあるのです。
とりわけ軍の弱体化が進んだのは、宋の時代でした。初代皇帝となった趙匡胤(ちょうきょういん)が、徹底した文治主義を推し進める一方で「武」を貶めたため、北方民族の進撃を食い止めることができなくなっていったのです。宋軍は中国史上最弱の軍であったと伝えられています。
軍の弱体化で占いや呪術に頼る兵陰陽の思想が浸透すると同時に、歴史上の人物を神格化する動きが強まりました。国家存亡の危機に立たされると、論理より、占いや神仙の類にすがりたくなる気持ちはわからなくはありませんね。三国時代の人物では、諸葛亮を始め蜀の関羽、張飛が神格化され、軍神として祀られていきます。兵法書における諸葛亮が次第に呪術的な要素を増していったのは、漢民族の中国が弱体化していく歴史と歩を合わせていたのです。
度重なる戦で疲弊し、敗戦、劣勢が続くと、戦そのものを止めようとする考えや合理的な策は影を潜め、神秘的な兵法や軍神に依存する度合いが増していく。これはなにも、かつての中国の話にとどまりません。今、この時代、「かつてその抑止力で戦争を止めた」と一部で語られる核兵器が、現代の「軍神」として存在感を増しているように思えるのは私だけでしょうか。
構成:浅野恵子