史書と演義

 中国の後漢末期から蜀・魏・呉の三国鼎立時代を描いた三国志の物語は、1800年の時を越えて、今も読み継がれています。史書としての『三国志』は、三国を統一した西晋(魏帝の禅譲を受けた司馬炎が建てた国)の歴史家・陳寿の著作です。一方、日本で広く読まれている三国志は、元代末期~明代初期頃に史実を物語化した羅貫中(らかんちゅう)の『三国志演義』に概ね基づいています。『三国志演義』を日本語に翻訳した湖南文山(こなんぶんざん)の『通俗三国志』、それを種本とした吉川英治の『三国志』、吉川本を土台として漫画化した横山光輝の『三国志』という流れです。

 三国志の楽しみ方や贔屓(ひいき)の国、人物は人それぞれだと思いますが、『三国志演義』においては、蜀の軍師・諸葛亮孔明が編み出す兵法が大きな見どころの一つだと思います。私自身、小学校高学年で横山版『三国志』に出合って以来、諸葛亮に魅せられ、大学の卒業論文でも三国志を取りあげ、今も三国志研究を続けています。

 しかし、長年研究を重ねても解明できないことがありました。それが諸葛亮の「八陣」です。『三国志演義』には何種類かのヴァージョンがありますが、清代に毛宗崗が批評を加えた『三国志演義』では、この八陣が「八卦の陣」という名称に替わっています。「八卦(はっけ)」とは古代中国の易(占い)における8つの概念で、つまり八卦の陣は占術に基づいた陣として描かれているのです。

 一方、史書の『三国志』には、八陣についての具体的な描写がありません。諸葛亮が創意工夫にすぐれ、連弩(れんど|一度に多くの矢を打ち出せる武器)の改良や木牛、流馬といった戦車に当たる箱車をつくったことは記されていますが、兵法については「兵法を自らの考えによって押し広めて八陣の図をつくった」という記述に止まっています。

 小学生で『三国志』に出合って以来その世界を追い続けていた私にとって、諸葛亮の八陣は長年の謎でした。その八陣の正体が私なりに見えてきたのは、つい数年前のことです。きっかけとなったのは、ロシアのウクライナ侵攻でした。

 一足飛びに現代の話になって唐突に思われるかもしれませんが、古来伝わる孫子の兵法は、たとえば米国のイラク戦争など、21世紀の今も活用されています。ところが、ロシアのウクライナ侵攻には、この孫子の戦術にそぐわない部分が多いことに気づいたのです。一つ例を挙げれば、「君主は軍の進軍を将に任せ、介入しないこと」。プーチン大統領はこの原則に反することをしていたので、ウクライナ侵攻は長引くのではないかと思っていたところ、その通りになっていきました。それを見て、改めて孫子を勉強しているうちに軍事常識が身につき、諸葛亮の八陣の図が頭で描けるようになってきたのです。八陣が次第に変化し、呪術性を帯びた八卦の陣になっていく過程や理由も考察できました。それが正しいかどうかはわかりませんが、以下に述べてみます。

 八陣の実態

 まず「八陣」について説明すると、八陣とは戦場における布陣法、あるいは陣を布くことそのものを指す言葉で、ある特定の陣形を表わすものではありません。これが明確になったのは1972年のことで、中国山東省でこの年発掘された『孫臏(そんひん)兵法』に記されていました。孫臏は戦国時代中期に当たる紀元前4世紀、斉に仕えた軍師で、『孫子の兵法』を著した孫武の子孫と目されています。

 孫臏によると八陣では歩兵、騎馬兵、戦車をそれぞれ三分し、中核に将と歩兵を置き、その左右、後方に騎兵と戦車を配置します。歩兵の中には弓兵、弩兵を含み、戦場の地形や敵の優劣によって兵や戦車の数、配置を変えていきます。

 では、孫臏が示したこの八陣を頭に入れて、諸葛亮の八陣についての記述を、年代順に見ていきましょう。

 史書の『三国志』には八陣の具体的記述がなかったことは先に述べた通りです。しかし、この史書と同時代の資料を元に書かれた『晋書』に、劉備の蜀漢を滅ぼした魏の司馬昭(しばしょう)が、「諸葛亮の八陣を西晋に伝えさせた」ことが記されています。司馬昭は、諸葛亮が五丈原で対峙した司馬懿(しばい)の次男で、西晋の礎を築いた人物です。司馬昭は、戦において父親を散々苦しめた諸葛亮を高く評価し、配下の陳勰(ちんきょう)に諸葛亮の戦術を調べさせました。

 陳勰は諸葛亮の戦場跡に赴き、諸葛亮の陣立て、用兵術、旗の使い方などを会得して西晋の中軍に伝えます。その中に八陣も含まれ、それを受け継いだ軍人・馬隆(ばりゅう)が鮮卑(せんぴ)族との戦いに挑み、勝利しました。馬隆の布いた陣形から考察すると、諸葛亮の八陣は戦車(箱車)に防御策を施して歩兵を守り、弩(いしゆみ)と弓によって騎兵に対抗する陣であったと理解できます。

 諸葛亮の軍が拠点としていた益州には山脈を縦断する桟道が多く、大きな車を通すことができませんでした。そのため小ぶりで扁平な三輪、四輪の木製箱車に武器など物資を載せて桟道を抜け、戦場ではその箱車に逆茂木(さかもぎ=先端を尖らせた木の枝)を装備して八陣を布き、騎兵の攻撃を防いだと考えられます。

 つまり、もっとも古い文献から浮かび上がる諸葛亮の八陣には、占いにつながる「八卦」の要素は微塵もありません。それが各地で伝えられるうち、次第に変化していくのです。