「井」の字型の方陣へ

 西晋から東晋へと時代が移った300年代、東晋の将軍・桓温は「諸葛亮の八陣遺跡」と言われる四川省の魚復(ぎょふく)を訪れ、諸葛亮の八陣は「常山の蛇の勢」だと考えました。常山の蛇とは孫子の兵法に描かれた陣形で、「頭を攻撃すれば尻尾が向かって来て、中央を攻撃すれば頭と尻尾が共に向かって来る」というものです。先述した通り、八陣が特定の陣形を表すものではないことを鑑みると、西晋には正確に伝えられた諸葛亮の八陣は、早くもここで実態を失っています。

 東晋と同じく300年代に興った北魏では、官僚の高閭(こうりょ)が「諸葛亮の八陣を継承した」と自認していました。高閭によれば、諸葛亮の八陣は「平地での防御陣」で、弓兵、戈兵(かへい)、騎馬兵の三軍に分けて兵を訓練すべき、と伝えています。しかし高閭には、諸葛亮の八陣を正しく受け継いだ西晋の馬隆の陣で「要」とされた箱車の言及がなく、ここでも変容が見られるのです。

 こうして諸葛亮八陣の実態は徐々に失われていきますが、決定的な変容をもたらしたのは、『李衛公問対(りえいこうもんたい)』でした。『李衛公問対』は600年代に生きた唐の二代皇帝・太宗と、太宗に仕えた軍人・李靖(りせい)の対話を中心にまとめられ、古代中国の七大兵法書(武経七書)の一冊に選ばれている書物です。

 『李衛公問対』では、諸葛亮の八陣を本来は一つだった陣が8つに分かれたもので、その基本は「井」の字型の方陣である、と解釈しています。この陣形は古代中国における伝説上の君主・黄帝が用いたもので、井の字の中央に大将軍を置き、正兵から成る天、地、風、雲、奇兵から成る龍、虎、鳥、蛇の計8つの陣を配置するものです。

 李靖は自らが用いた「六花の陣」で北方の強敵・突厥(とっけつ)に勝利しました。六花の陣は正兵から成る井の字の方陣と奇兵から成る円陣の組み合わせで陣の数は7つですが、李靖はこれが諸葛亮の八陣に基づいたものだと述べています。現在、諸葛亮の八陣は井の字型であるとの説が多く見られますが、その発端がこの『李靖公問対』の記述だったのです。

 ここで八陣を8つの陣とする解釈が登場したわけですが、ただし、太宗と李靖の対話にも、「八卦」につながる占術や呪術は一切登場しません。伝承のなかで井の字型へと変容した諸葛亮の八陣が占術と結びつくのは、唐代に著された別の兵法書『太白陰経(たいはくいんきょう)』によるものです。

論理と占い

 『太白陰経』の著者・李筌(りせん)は、孫子の兵法書に論理的な注釈をつけている人物です。『太白陰経』は全10巻で、前半が兵権謀、後半が兵陰陽と大きく分けられています。

 兵権謀、兵陰陽はいずれも古代中国の兵法で、権謀とは状況に応じて謀(はかりごと)を巡らすという意味ですから、合理的な計算に基づいた戦術です。一方、陰陽はあらゆることがらを陰と陽に分ける古代中国の思想で、兵陰陽は吉凶を占って立てる戦術を意味します。軍を起こす際に日時の吉凶を占い、五行説(万物は木・火・土・金・水の5元素から成り、互いに影響を与え合うとする考え方)に基づいて鬼神の助力を得る兵法です。

 『太白陰経』はこの兵陰陽部分の呪術性が極めて高く、古代中国の研究者からはあまり評価されていません。私も当初は論理的に軍を組織し、兵を進めていく兵権謀に重きを置いていたため、戦う日や戦法を占いで決める兵陰陽にはあまり注目していませんでした。

 しかし、先に述べた理由で古代中国の兵法を改めて勉強し、孫子の兵法書に最初に注をつけた曹操の『魏武注孫子』なども読んでいくうちに、兵権謀と兵陰陽は対極にあるものではなく、表裏一体なのではないかと思うに至ったのです。

 孫子は論理的な兵権謀の代表格であり、その兵法書に注をつけた曹操もまた、論理的、合理的に戦法を練る人物です。『魏武注孫子』にも、兵陰陽の記述は見られません。ところが、その曹操がさまざまな兵法書を引用してまとめた『兵書接要』には、雨の降り方による吉凶など、兵陰陽に相当する記述が含まれているのです。

 曹操自身は、兵陰陽を信用していなかったかもしれません。しかし、戦は当日の天候や風向きなど偶然性にも左右されますから、前線で闘う兵士たちはそうしたことがらを気にかけるものです。曹操は戦場で命を賭ける兵士たちの心理を慮(おもんぱか)って、神頼み的な兵陰陽の戦術も記したのだと思われます。

 それを踏まえて『太白陰経』を読んでみると、とても興味深く、大きな発見もありました。兵陰陽の戦術を描いた後半の9巻に奇門遁甲(きもんとんこう)の記述があり、これこそ諸葛亮の八陣が八卦の陣に変容していくポイントであることがわかったのです。