――クラシックなんかを聴いていると、たまに、音楽がわかるってどういうことなんだろうと思うことがあります。言語であれば、たとえば「デンシャ」という音が、人を乗せて走っている鉄の箱のことを指しているんだと知れば、「電車」という言葉が一応はわかったということになりますよね。でも『美しき青きドナウ』を聴いて、きれいだな、いいな、とは思っても、曲自体からドナウ川のことを、そもそも私はドナウ川を知らないんですけど、思い浮かべることはできません。するとそれはこの曲のことを「わかってない」ことになるんでしょうか。
それはぜんぜん関係ないと思いますよ。だって、タイトルって大体いい加減なものですよ。なくたっていい。曲もそうだし絵画だってそうですよね。誰々の肖像とかって言われても、その人を知ってるわけじゃないし。
――そうなんですよね。
具体的なタイトルがあると、特定のリフェランスを持ってるかのように思ってしまうけど、実際はそうじゃない。ヨハン・シュトラウスは別にドナウ川を表現しようなんて考えてなかったと思います。たまたまそんなタイトルをつけた。そうつけるとウケるとおもったのかも(笑)
――なるほど(笑)
音楽のシステムと自然のシステム、ことばのシステム、どれも違いますから。というか、システムって容易に互換できないじゃないですか。自然を曲で表現しようと思った人も確かにいますが、あの曲は違うと思います。楽器の音は自然の音と違って作られたものだし、何かに似せる、あるいは似てしまうことはあるけど、そのものになることはないですよね。叫び声に近い音をヴァイオリンとかエレキギターで出すことはできるけど、それが叫び声になることはない。
これは何々を表している、たとえば喜びを表しているとかって言うけど、それも嘘ですよね。詩や小説もそうだけど、喜びを表すのではなく、人を喜ばせる、読んでる人が喜びを感じる。それが作品の機能ですよ。音楽もそうだと思う。こういうものを表しているんだ、ではなく、受け手に対してそう働きかける、そこに意味や方向性があるんじゃないでしょうか。
――よくわかりました。
音楽は世界中にありますが、それぞれみんなシステムというか「文法」が違う。たとえば、バリ島でもいいし、ポリネシアの、アフリカのどこかの音楽を聴くと、最初はものめずらしい、面白いと思う。でも、大体5分とか10分で飽きてくる。その音楽の「文法」がわかってないのが一因です。最初は珍しいということで反応できるけど、それより先には行けない。それがわかるようになるには、やっぱり繰り返し聞く必要がある。他方、文法がわかれば面白くなるかというとそうでもない。そんなのわからなくても面白がることもできる。そこがややこしい。
音楽っていうのはよく、わかるじゃなくて感じられるかどうかだっていわれます。それは一理ある。たしかにそうなんです。感じられなければ意味はないんだけど、一方で、いま言ったような意味での「文法」もある。中には「文法」なんかわからなくても、深くまで入れちゃう人もいます。外国語でも、習ってないのにしゃべれちゃう人とかっていますね。だから一概には言えないんですけど、少なくとも「感じる」か「わかる」かの二者択一ということではないと思います。
――相互補完的というか、何かを感じるからこそわかろうとするし、わかることでより感じるようにもなりますよね。
「わかる」というのは「分ける」からきていると言われますけど、では、音楽がわかると言うときには何を分けているのか。たとえばベートーヴェンのある曲を構成要素に分けて、その構造を解明したとする。それによってその曲のことがわかったと言えるかというと、それはまた別の話です。分析的に理解することが必ずしもわかることではない。
お医者さんもそうかもしれないですね。アナリティックに考える西洋医学と、ホリスティックな東洋医学の発想の違いというか。映画『レインマン』の主人公はサヴァン症候群で、レストランの店員が床に落としたマッチ棒の数を正確に言い当てるけど、そこに意味を見出すことはない。でも、もしも彼が占い師だったら、その数で何かがわかっていたかもしれないわけですよ(笑)
ストーリーとしての音楽
――いまのお話ともつながってくるんですけど、歌詞のついている曲だったら何を言わんとしているかが当然わかりますが、インストゥルメンタルだとこれは何を意味しているんだろうって考えちゃうんですよね。作品の意図が読み取れないというか。美術館で絵を見るときもそうで、この絵は画家がこれこれこういうときに描いたものであるという解説を読めば、「なるほど、この部分にゴッホの苦悩が……」とかって、わかった気になれるんですけど、そういった情報がないと作品にうまく近づけないことが多いです。単に勉強不足だと言われればそれまでなんですけど……。
最近の、特に若い人は歌がついてない曲は聴かないというか、そもそもインストゥルメンタルをあまり知らなかったりする。歌がついてるとたしかにわかった気になる。それは言葉の意味というだけじゃなく、身体感覚でわかるんです。歌声というのは上がったり下がったりしますが、声の調子が変わるときには歌い手の身体も変化していて、たとえば高い声の時は喉が締まるし、開けば低い声になる。そういうことで身体的にわかるんだと思うんです。
――なるほど。
それに対してインストゥルメンタルは、さっき言われたようにストーリーがないかのように思っちゃうんですけど、そんなことはない。ある音が鳴っていて、その次の音が上がったら少し緊張する。物理的には振動数が増える。音が低くなれば振動数が減って、緊張が緩む。つまり歌声と同じで、上がったり下がったりというストーリーでできているわけです。それがミクロなレベル、二つとか三つの音でできているのか、10とか20、あるいは1000個のユニットでできているのかによって、展開の仕方が変わってくる。
オーケストラのようにいろんな楽器を使う場合には、たとえば最初に流れてきたピアノの音にヴァイオリンやフルートがどう合わさるのか、あるいはずれるのか、別の楽器がアクセントをつけるのかっていうことあるわけです。曲をつくるというのは、そういったストーリーをつくることだと思うんですよ。あまり言われないけど、実は音楽にはすごくストーリーがある。それは自然界や日常の世界とは関係なく、その作品世界の中だけにあるものです。
音楽にストーリーがあるからこそ、そのストーリーをあえて壊すようなことが20世紀に起きた。『4分33秒』がまさにそれです。電車の音、カメラのシャッター音、頭を掻く音、誰かの足音……。それらは偶発的なものだからストーリーにならない。私たちが暮らす日常はそうだよねってこと。
――いまのお話をお聞きして、音楽は詩に近いなって思いました。私はこれまで音楽を「記号」として捉えていたというか、自然界の何かであったり、人間の感情だったりをいろんな音によって表現していると思っていたんですけど、そうではなく、ある曲は――詩や小説がそうであるように――それだけで一つのストーリーとして、一つの世界として完結している。そう考えるとすごくしっくりきました。
そうですね。
――タイトルがやっぱり曲者ですね。相当バイアスをかけられてた気がします。
だから、クラシックの曲名の多くがソナタとかコンチェルトとかシンフォニーとかになっているのは、言葉のイメージを寄せつけないためですよね。ソナタは音とか交響曲ってことだし、コンチェルトは協奏曲、シンフォニーは声を総合するってこと。つまり、ほとんど何も言ってないんです。
――よくあること、かどうかはわからないんですけど、たとえば海外のロックを聴いてすごくいいなと。それで何を言ってるんだろうと思って歌詞を見たら……
大したこと言ってないよね。すごく深いことを言っていることも多々ありますけど。
――意味がわかってないのになんで感動するんだと不思議だったんですけど、曲そのものがストーリーなのであればぜんぜん不思議じゃないですね。