社会的分業
――産業化に伴う分業によって生み出される人為的な差異をアダム・スミスが見出したということでしたが、ここでいう分業とは具体的に言うとどのようなものですか。
スミスは『国富論』の冒頭でピン工場の例を挙げています。それによると、ピンを作るという仕事は、針金を引き延ばす、切断する、とがらせるといった18の作業に分割されており、それらの作業は別々の人の手によって行われている。そうすることで、各自がすべての作業をこなす場合とは比べ物にならないほど効率的な生産が可能となり、結果として膨大な生産者を生み出すことができると。
ただ、これは工場の中の分業ですが、スミスがメインで考えていたのは社会の中における分業の方だったと思います。そういう意味でスミスの分業論にはやや曖昧なところがあるのですが、社会的分業については後にデュルケーム(1858-1917)が『社会分業論』の中で精緻な議論を展開しています。
デュルケームによると社会を構成する連帯には「機械的連帯」と「有機的連帯」の二つがあります。前者は類似した諸個人が結びつく似た者同士の社会で、農村共同体などがこれに当たります。それに対して後者は相互に異なる多様な個人がその差異を基に補完し合いながらつくっていく社会です。これがすなわち社会的分業ということですが、デュルケームはこの社会的分業の規範的な性格(多様な諸個人が補完し合うことで形成される秩序)が専制権力を不要とし、自由を実現するということを言っています。プルードンの社会分化の構想は、このようなデュルケームの連帯論の先駆をなすと言えるものであり、そういう意味でプルードンにはフランス社会学の祖という一面もあるということが言えると思います。

――その場合の社会的分業というのは、たとえば教師がいて、お医者さんがいて、弁護士がいて、といったことですか。
そういった社会的機能の分業もあると思いますが、プルードンが考えていたのは大工とか靴屋とか印刷工といった職人の世界だと思います――プルードン自身若い頃は印刷工として働いていました――。中世のヨーロッパには親方・職人・徒弟からなる同業者の組合組織いわゆる「ギルド」がありました。フランスはこのギルドの結束が非常に強く、技術の継承と同時に若者の教育の場としても機能していたため、プルードンの念頭にはこうしたギルド的な組織によって社会が存続・発展していくイメージがあったのではないかと思います。
――スミスのピン工場の例とはぜんぜん違う話ですね。
ピン工場の例自体は工程の分割に過ぎませんからね。工場での大量生産ではそれぞれの工程に労働者がはめ込まれて逆に自由や自律性が失われてしまうのですが、フランスは産業革命の進行が緩やかだったのでギルドのような組織がかなり長持ちしました。特にパリのような都市では、京都なんかもそうだと思いますけど、伝統的な製法に則った高級品の需要が高いので、古いものが残り続ける傾向にあります。といっても新しいものを拒絶するわけではなく、ゆるやかに浸透して新たな社会環境が作られていく、ということではないかと思います。
秩序とは何か
――ご著書『アナーキズム』によると、プルードンにとって肯定的な意味で言われるアナーキーは、秩序の敵ではなく、秩序と自由は究極的に一致することが想定されているそうですね。秩序と自由は相反するもののようにも思えるので意外な感じがしました。
そこは大事なところで、通常アナーキズムと言われるものは秩序をぶち壊せというイメージが強いんですが、プルードンはそういう考え方をとっていません。そこはむしろハイエクをはじめとした保守系の発想と近いように思います。
――ここで言われている秩序というのは、それこそギルドのような組織や共同体の中のルールのようなものを指しているのですか。
ルールというより構造や関係性と言った方が近いかもしれませんね。社会的分業が実現している社会というのは、異なる機能を持った個人や組織によって構成されています。この分業体系の中で、異なる機能をもった人同士が関わり合い、それが徐々に対等な関係になって自由が実現する、という見通しだと思います。

――差異のある人たちが集まって、ひとつの有機的な社会をつくっていく。
いや、いろんな人が集まって社会ができるというのではなく……
――あ、そうか。社会自体がさまざまな機能に分化していくんでしたね。
そういうことです。そしてその中に人間が配置されるというか、存在しているわけです。産業社会は分業による複雑な差異をもとに構成されおり、こうした差異を抑圧するのではなく生かすことによってのみ自由は可能になる。自由の基盤はこうした社会分化にこそあり、そしてそれは特定の個人の働きによってではなく、歴史的に発展・形成されていくものだとプルードンは考えたわけです。
――そこが社会契約論とは決定的に違うんですね。自然状態にある自由な個人があるとき集まり、自由の一部を犠牲にして社会をつくったのではなく、社会というものは最初からあり、それが分化してどんどん複雑になってきたんだと。
そうですね。なので、社会契約論の時代とフランス革命後とでは、秩序というものの捉え方がぜんぜん違うんですよ。
ヨーロッパ社会は長い間封建制がベースとなっており、社会契約論が生まれた17世紀の状況は、封建制を海だとすると、都市はそこに浮かぶ島のようなものでした。封建制というのは君主から領土を与えられた諸侯がその土地と領民を統治する制度ですが、それによって主に地方で形成される秩序と、生まれも育ちも異なる人びとを市場が媒介する都市の秩序とで大きな違いがあるのは当然です。
ウェーバーに言わせると都市というのは人びとが一緒に住むことを誓約する共同体であり、だからこそアテナイの民主制のような特殊な秩序が生まれたのかもしれませんが、そのような「島」が自立してやっていくにはどうすればいいかというのは、ホッブズやロックの問題意識とも近いものだったと思います。ところが、フランス革命によって都市の特殊な秩序だった民主制が普遍的な秩序になったため、社会秩序が生まれる前の自然状態を想定することはできなくなったし、その必要もなくなったということではないでしょうか。

――革命前にはむしろ特殊だった都市の秩序が、普遍的な秩序としてフランス全土に適用されるようになったわけですね。ルソーのお話のところでもありましたが、民主制が限られた空間における制度だったというのはすごく納得感があります。共同体の成員がみんな顔見知りであれば、何か問題が起きたときに解決策をみんなで考えたり、困った人がいれば助けたりということがイメージしやすいのですが、それが県とかましてや国といった大きさになると、政治に参加しているという実感を得るのはなかなか難しいなと感じます。
そうですね。ルソーはお互いの顔が見える関係性を基本として自律した政治社会というものを考えていたと思いますが、プルードンはそれは政治秩序ではないと言っています。プルードン自身はフランス東部のブザンソンあたりの出身なのである意味地方主義的というか、顔の見える社会への愛着はすごくあった人ですが、政治によってそういう秩序をつくろうとすると、逆に非常におかしなものができてしまうと考えていたようです。
――秩序は政治によってではなく、社会自身の分化によって形成されていくものだということですか。
そういうことですね。プルードンがそう考えたことにも、フランス革命の経過が関わっていると思います。
革命期のフランスは商工業者の代表で地方主義的だった「ジロンド派」が最初は力を持っていましたが、ロベスピエール率いる「ジャコバン派」が都市民衆たちの支持を集めて徐々に勢力を伸ばしジロンドは衰退。その結果、革命政府は中央集権的な性格が非常に強いものとなりました。それに対する最大の反乱がさっきお話した「ヴァンデの反乱」ですが、寡頭的ではあるがそれなりに自由な政治体制と、反対に民主的ではあるけど自由が抑圧された政治体制、この間を行き来したのがフランス革命の経緯だった言うことができます。そして、中央集権的な権力によって自由や秩序を作り出そうとしたジャコバン的なやり方を批判したのが、プルードンをはじめとしたアナーキズムの「始祖」とされる人たちだったわけです。
とはいえ、プルードンがフランス革命を否定したというわけではありません。他の社会主義者同様、自由や平等の理念を重視する以上は、それが宣言されたフランス革命に敬意を払っていることもたしかです。保守主義者のように革命を否定して革命前に復帰しようというわけではなく、革命には進歩の面がありそれ以前の社会に戻れないということも共有されていました。そのうえでフランス革命の何が問題だったのかを考えることが19世紀の社会主義者には求められていたのです。