政治体制と社会のサイズ

――社会契約論といえばルソー(1712-1778)もその論者のひとりですが、ルソーが考える自然状態(社会が成立する以前の状態)というのはどういうものだったのでしょうか。

 

 政治の規範を導き出すための論理的仮説、というのがルソーの自然状態の位置づけです。国家や私有財産、家族、言語的発達といった文明的要素をどんどんはぎ取っていくというのが彼の自然状態へのアプローチで、要するに一種の思考実験ですね。

 18世紀になるといわゆる新世界の探検記が出版されるようになり、野生に近い生活をしている民族であったり、あとは類人猿、オランウータンやゴリラなどですね、そういった存在が知られるようになってきました。そうなってくると、ホッブズやロックが言うような自然状態の実在性に学問的根拠を与えることがますます困難になってきたということが言えると思います。

 

――自然状態が実在したとはルソー自身も思っていなかったわけですね。

 

 ルソーは人類がどこからはじまるのかということに強い関心を持っていました。彼は類人猿も人類の中に含めるような書き方をしていて非常に興味深いのですが、人類学者のようなところがあったように思います。そういうことで、一口に自然状態といってもホッブズ、ロック、ルソーでそれぞれ違いがあるわけですが、それとは別にルソーが問題にしたことの一つが政治体制と社会のサイズの関係です。

 古代アテナイのような民主制は小さな国家じゃないと不可能だというのは、ルソーに限らず、18世紀までは自明の前提と言ってよいものでした。古代ローマの共和制になると多少性格が変わってくるのですが、この民主制・共和制の伝統を継承してきたのは都市であり、フィレンツェやミラノをはじめとするイタリアルネサンスの各都市や、宗教改革時のスイスやドイツの都市などがそれにあたります。

 ルソーの議論も基本的には都市を想定しているのですが、彼がモデルとしたのはジュネーブであって、パリのような大都市や、ましてやフランス全土ではありません。ルソーの思想はフランス革命に大きな影響を与えたとされていますが、彼自身は自らが思い描くような人民が政治に参加する政治体制がフランスで実現できるとはまったく考えていませんでした。

 

――フランスは大き過ぎる。

 

 そういうことです。大きな空間は君主が統治せざるを得ないと。当時のフランスはモンテスキュー(1689-1755)らの影響で、専制君主が生まれるのは困るけど、貴族制も含めた比較的自由な立憲君主制がいいというのが一般的な考え方でした。ところが、ルソーに心酔したロベスピエール(1758-1794)らがルソーの議論を無理やりフランス全土に適用しようとした。代議制は必要だということでその点は修正していますが、このことがフランス革命後の混乱のもとになったということが言えると思います。

  フランス革命はいろいろな失敗を犯しているわけですが、その最たるものが宗教に対する扱いです。フランス革命というと絶対王政への反乱というイメージが強いですが、実際にはカトリック教会の教権支配に対する反発も非常に強くありました。そのため革命政府はカトリックの聖職者を公務員にして国に帰属させ、共和国への忠誠を誓わせています。信教の自由は認めたものの、宗教の国家統制をやったわけです。その結果、これに対する強い反発が各地で起こりました。

 その代表例が、フランス革命中に最大の犠牲を出した「ヴァンデの反乱」(1793年)という農民反乱です。これは革命政府の徴兵制に反対する農民が蜂起したものですが、この反乱を指導したのが聖職者や領主層の王党派といった保守派の人びとでした。ヴァンデの反乱は急進的な改革への反動と見られがちですが、パリ中心の過度な中央集権に対する地方の反乱と捉えることもでき、フランス革命がいかに無理なことをやろうとしたかを示しているとも言えます。

 こうした革命政府の指導者たちがルソーの議論を取り入れたため、ルソーはもしも生きていたら決して支持しなかったであろう革命の功労者に祀り上げられ、殿堂入りまでさせられてしまいました。

 

――なんか、気の毒ですね……。

 

 そうなんですよ。繰り返しになりますが、フランス革命の前と後では政治社会のサイズがガラッと変わっていきます。ルソーはあくまでもアンシャンレジーム期に思考した人で、モデルはフランスではなくジュネーブのような小都市です。しかし、後にルソーを引用する人は革命後の社会にその議論を持ち込もうとするので、ルソーは必然的に誤解されてしまう思想家なんです。

 二つの差異

――フランス革命後の19世紀を生きたプルードンから見ると、ルソーはやはり一時代前の人という感じだったんでしょうね。

 

 ただ、この二人には実は共通している点があって、それは「人が社会にあってなお自由であり続けるためにはどうすればいいか」という問いを考え続けたということです。しかし、それに対する両者の答えはまったく違いました。

 ルソーの場合は人民主権ですね。これはときどき民主制と混同されるんですけど、国王を辞めさせる権利を人民が有していれば主権は人民にあるといえるので、人民主権の下では君主制も成り立ちます。つまりルソーは民主制ではなく人民主権の思想家なのですが、その政治体制が主権(国家を統治する権力)に基づくものであったことは確かです。

 これに対してプルードンは、19世紀になるとはっきりしてくる社会の分化と科学技術をはじめとする多様な発展が、権力の支配や政府の機能の拡大によらずどう維持されていくかを問題にしました。これを踏まえると、ルソーとプルードンの議論の違いは、18世紀と19世紀の非連続性を際立たせていると言うことができるかもしれません。

 

――ルソーは人間の根源的な感情として自己愛と共にあわれみ(同情)を挙げていますが、その根底には同質性というか、人間はみな同じであるという感覚があるように思います。それに対してプルードンは社会分化に注目したということから、人間の差異性を重視したともいえるように思うのですが、いかがでしょうか。

 

 それについては「自然的な差異」と「人為的な差異」を分けて考える必要があると思います。前者についてはルソーも認めているんですよ。彼は生涯を通じていろいろな土地を転々とした人で、パリのような大都市やジュネーブのような小都市、フランスの農村などにも行っており、それぞれの風土によって人間性が異なるということはよく知っていました。ですので、必ずしも同質性のみで思考したわけではなく、こうした自然的差異については十分考慮に入れていたと思います。

 一方でプルードンが注目した社会分化というのは、産業化に伴う分業によって人間が互いに異なる機能をもった存在になっていくということです。それは各自がもともと持っていたり、生まれ育った環境によって自然に形成されていくものではなく、分業によって人為的に作り出された差異です。この人為的差異を導入したのはアダム・スミス(1723-1790)ですが、プルードンはこれを受け継ぎ、こうした差異を基に協力し合う関係を構築することが重要だという議論を展開しています。つまり差異の基盤が、18世紀から19世紀にかけて、風土のように自然的なものから産業化による人為的なものに変わっていった、ということが言えるのではないでしょうか。