アソシアシオンの要件
――プルードンの思想の中心的な概念のひとつとして「アソシアシオン」があると思うのですが、これはさっきお話のあったギルドのようなものと考えればいいですか。
そうですね。ギルドにあった階層性や閉鎖的なところをなくし、自由な方向に作り変えていったものと言えるかもしれません。さっきも触れた通りギルドには親方・職人・徒弟という上下関係があるのですが、その中で職人が中心となって関係性を平等化していこうというのがプルードンの見立てではないかと思います。
プルードンはアソシアシオンの中心的な論者だと思われがちで、プルードンを批判していたマルクスでさえこれについては彼から学んだということが言われますが、アソシアシオンというのは社会主義者の共有物みたいなもので、サン=シモン(1760-1825)、フーリエ(1772-1837)やその弟子、2月革命で中心的な役割を果たしたルイ=ブラン(1811-1882)といった人たちはみんなアソシアシオン論者でした。
プルードンはそういった人たちに必ずしも共感していたわけではなく、アソシアシオンが革命政府の統治下に置かれるのであれば意味がないというのが彼の立場です。そのせいもあって、プルードンは二月革命で国会議員に選出されながら、後に国外追放となってブリュッセルに亡命しています。ただ、アソシアシオンの意義を説いている箇所もあることから、何らかの労働組織が必要だと考えていたことは確かだと思います。
――組織の成員や異なる組織同士が対等であることと権力から自由であることが、プルードンの考えるアソシアシオンの要件だったわけですね。
そう言えると思います。政府が設置する国家機関ではなく、労総者の組織によって社会的な機能を果たしていこうということですね。プルードンにとって人間の自由とは、対等で相互的な社会関係のなかに置かれることではじめて可能になるものであり、そうした対等な他者からの制約がなければ容易に権力による「主人」的な支配へと落ち込んでいくものとして把握されていたということが言えると思います。

――アソシアシオンというのは、いまでいうと労働組合みたいなものですか?
労働組合の初期形態の一つなんでしょうけど、大規模なものではなく、それこそお互いの顔が見えるような感じだと思います。
――工場の労働者を想定したようなものではない?
当時のパリの一事業者の平均規模は数人だったので、工場というよりアトリエ(工房)と言った方がぴったりだと思います。フランスでも郊外には大きな工場ができつつあったのですが、都市というのはやはり大量生産には向かないので。
――アソシアシオンというのは各工房の中だけで完結するのではなく、工房を横断して、A工房・B工房・C工房……の職人がつながっていくということですよね。
そういうことですね。職人の世界には、ある一定の年齢に達すると各地の工房を訪ね歩いて腕を磨き、認められると親方になるという風習がありました。有名なツールドフランスというのは、元はこの職人の遍歴コースだったんですよ。フランスの社会主義の基礎にはこうした伝統によって培われた分厚い社会性があり、プルードンの議論の背景にも当然それはあったと思います。
新自由主義の原義
――プルードンの頭にあったのは互いの差異を認めながら連帯し、一つの社会を動かしていくようなイメージだったんですね。
そうですね。ただ、歴史の主流となったのは、社会全体をひとつの工場のように捉えるサン=シモンから後のマルクス主義へと受け継がれていく思考様式の方で、これはナポレオンの統治にも利用されました。こうしてフランスの近代化が進んでいくわけですが、プルードンはこの社会の工場化に反対し、複数主体が競争し合うことが重要だと考えていたようです。

そういう意味では自由主義的で、アダム・スミスに近いともいえるのですが、スミスが言うようにレッセ・フェールで、つまり市場のはたらきに任せておくだけ十分な秩序ができると考えていたわけではありません。市場交換は所有を前提としていますが、最初にお話した通り、所有は不平等を作り出すからです。なので、市場や競争は重要なんだけど、それが正義に基づくものとなるように調整していく必要があるという発想になっていくわけです。
――「見えざる手」を当てにしていたわけではないと。その市場の調整をするのは国家ということになるんですか?
そこが実はよくわからないところで、恐らくプルードン自身も詰め切れていなかったのではないかと思います。プルードンは市場の調整以外に累進課税についても言及していて、現代の視点からすると案外「まとも」なんですよね。革命とか過激なことも言ったりしますが、それも急進的に全部を取り換えるというのではなく、漸進的に、重要なところから少しずつ変えていくという発想だったということが言えると思います。
――市場と政府の関わりということでいうと、1980年代以降は「小さな政府」を標榜する新自由主義が世界を席巻してきました。政府の介入を(極力)排除するという点を見ると、新自由主義とアナーキズムには通じるところもあるように思いますが、プルードン自身は――その主体が政府であるかどうかはともかく――市場に介入すべきだと考えていたのは面白いですね。
一般的な新自由主義のイメージは、それまで政府が担ってきた福祉や公共サービス等を民営化し政府は後景に退いていくというものだと思いますが、ネオリベラリズム=新自由主義という言葉が生まれたときはそうではなく、むしろ政府が市場を作っていくという意味合いの方が強かったと言えます。それが最もはっきりしていたのがドイツのオルド派で、彼らはある種の設計をして市場を作るわけです。市場かそれとも大きな政府かという対抗関係ではなく、政府は撤退するどころか、むしろ積極的に自由競争的市場の創出や維持に責任を負うべきだと。

これに対してハイエク(1899-1992)らが設計主義を批判し、そこから経済的自由主義の流派が分かれていくわけですが、そのハイエクも市場のはたらきに全部まかせるのではなく、長い時間を経て形成される市場の自生的な秩序を拡大していく必要があるということを言っています。つまり新自由主義の議論は、もともとは市場か政府かという単純な二元論に収まるものではなかったんです。
このことがなぜ重要になるのかというと、新自由主義者はなんだかんだ政府の批判ばかりやっていたのですが、世の中が金融資本主義化し、バブルとその崩壊で金融恐慌が起きると、助けてくれるのは結局政府しかいない。つまり、新自由主義の元々の着想に戻らざる得なくなってきており、今では市場だけにまかせておけば大丈夫だと思っている人はほとんどいないでしょう。そういう意味では、レッセ・フェールを良しとしなかったプルードンにも先見の明があったということが言えるのかもしれません。
(取材日:2024年11月27日)