――男女の権利ということで考えたときに、たとえば女人禁制の山があったりとか
土俵に上がれないとか、そういうこともありますね。
――そういう伝統的なものと男女平等ということをどう考えるか、という議論もあると思うんですけど。
それも難しいですよね。女性だって土俵に上がっていいだろう、といってどかどか上がったってことは、今までなかったわけですが、伝統やしきたりを守ろうとする側と、それを「女性差別」だと考える側で、議論にはなっているわけです。私は、こうした問題は、黒か白かという単純な二元図式で割り切れない問題を含んでいて、もっと繊細に考えていかなければならないと思っています。社会的に一律に問題にして解決するようなことではなく、個別に考えていくべきだという判断もあるのかな、と。
たとえば女性の研究者が女人禁制といわれている場所で調査したいと言ったときにどうなるか、ということは考えられます。それは個別のケースで、そういうことなら入っていいですよとなるのか、それでもダメとなるのか。そういう問題が生じたときに個別に議論して判断して、そういう判断・実践が積み重なって、少しずつ慣習が変わっていく、そういう変わり方を目指すということ。
――そういうケースはありそうですね。
だから議論はあっていいし、どんどんすべきだと思います。それによってみんなが納得すれば変わっていくというか。以前ミスコンテスト問題について論文を書いたんですけど、そこで「ミスコンは差別だ!」と言って積極的に糾弾することの中には落とし穴があるという議論をしました。それは、個人的なものも含めた、美についてのすべての論評までがダメだということになってしまう、と。
美という評価基準が不適切な場面で使われることに対して「おかしい!」というのは当然ですけれど、個人的に「あの人きれいだよね」と言ったりすることまでダメっていうのは変ですよね。でも、フェミニズムの近代的な戦略として始まったミスコン批判の論理を突き詰めていくと、美という評価基準そのものを否定することになってしまうんです。もちろんミスコン批判は、現実の「男社会」の構造を象徴的なレベルで問題化する、批判するという意味では、十分有効で重要な役割を果たしました。
――問題なのは美という評価基準が不適切な場面で使われているということで、評価基準そのものではない。
その通りです。ただ不適切な場面で使われるっていうのはどういうことかと考えていくと、それは結局、告発不可能なものになってしまう、ということがある。
――どういうことですか?
たとえば、ある会社で誰かを昇進させようとなったときに、Aさんは美人だけど実力はない、Bさんはとくに美人ではないけれどすごく実力がある、としますよね。それでAさんが選ばれたとしても、それが差別だっていう証拠をみつけるのはすごく難しい。Aさんに実力がないということが今までの業績で示されたとしても、「いや、Aさんには将来性があるんだ」とか「こういう場面では強いんだ」とか、そうした人事を正当化するために、なんとでも言うことができる。
美人だから選んだということを客観的に裏付けるものは存在しないわけで、なぜかと言ったら、それは心の中の問題だからです。その人を美人と思うか思わないかって、好みの問題でもあるからすごく恣意的になる,「Aさんが美人?そんなこと思ってない」と言って自分を正当化することだってできてしまう。
差別と区別
ここで何が問題かというと、評価する側に男が多い、要するに「男社会」である、ということです。評価する側に女性も同じくらいいれば、イケメンに甘くなるということだって起こるかもしれない。そうすると、それは性差別の問題じゃなく、倫理的な問題になります。企業の人事評価という場面で、外見の美醜という評価基準を使っちゃいけない、男性/女性を問わず、という当たり前の話になるはずなんです。
性差があるということは男であることや女であることがそれぞれ異なる意味を持っているということです。ラディカル・フェミニズムの主張は、論理的に突き詰めれば、その意味がなくなる社会を目指すということを含意しています。
性差がなくなれば、たしかに差別はなくなるでしょう。区別がなくなってしまうわけだから。でも、それが本当に私たちの目指す社会なのか。もっともそういった主張をしているフェミニストはほとんどいませんが。
――区別はありつつ、そこから差別が生まれないようにする必要があるわけですね。
そのために必要なのは、性差が構造的・組織的な不平等感を生まないようにすることではないでしょうか。私は「個性のきらめきの一つ」という言葉を使っているんですけど、男であることや女であることが、背が高かったり、太っていたり、文学にはくわしいけど音楽には暗い、性格が優しい、すごく社交的といった、いろんな性質、属性の中の一つとして扱われる。そういう状態になればいいと思うんです。
でも、男性が女性を評価するという構造的なアドバンテージが固定化されている限り、やっぱり性差別の問題になっちゃうんですよね。男性の方が、自分の好みを押し通すというようなことがどうしても多くなるので。
――評価する側に男が圧倒的に多いのが問題だと。
そうですね。まず男性と女性が評価する側に同数いれば、男であることの意味がとくに優勢なものとして固定化されずに、各自が持っている個性の一つだとみなされるようになるんじゃないかと。
どういう社会が平等な社会かを考えるときに重要なことは、複雑なものを複雑なままに見るということだと思います。男か女か、黒か白かみたいな考え方はわかりやすくて、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことは政治的」というような一元論もすごくクリアで役に立つツールだとは思うんですけど、そこにある微妙な色の違いを見ていくことも必要だと思うんです。黒と白だけじゃない、その間にはいろんなグラデーションがあるわけだから。そういうふうに考えていかないと、現代社会とかジェンダーの問題を扱うことはできないと思います。