社会っていうものはやっぱり性に規定されているんですよね。私たちの社会は、「性差」という差異にきわめて敏感です。性差に鈍感な社会、性差に無関連に成立している社会はたぶん歴史的にもなかった。プリミティブな社会でも近代的な社会でも、性差を基盤にして成り立っているということがあるので、ジェンダーというのは社会にとってすごく根本的な問題です。

――職業も、年齢も、住んでいる地域も関係なく、すべての人に関係しますもんね。

 そう、実際の社会には抽象的な人間なんて一人もいない。誰もが必ず男として、女として存在することを強いられています。それを性別二元制といいます。それはでも二元制っていう制度に過ぎないわけです。

――押しつけられたものというか。

 実際には、人間の身体は一人一人あり方が違っていて、性的なあり方も実は違っています。いま、その心と体が一致していない人、体は男でも自分は女性だ、あるいはその逆、あるいは男でもない女でもないと感じる人々、そうしたさまざまな性自認をもつトランスジェンダーの人たちが、社会のなかで少数ではあるけれど確かな存在感をもつようになってきました。そういう人たちにとっては、性別二元制が当たり前の社会は、とても暴力的で生きづらい社会だと思います。

――いまお聞きしてちょっと思ったんですけど、男だからこう考える、女だからこう考えるというのではなく、性差を基準にしないで、いわば人間として考えるというのは難しいんでしょうか。

 私たちがふつう考えるときは私として考えているだけで、特に男として、女としていうふうに意識はしてないですよね。逆に言うと、まったく意識化できない、前言語的な、身体化された水準で、男であることや女であることが私たちの言動を一挙手一投足まで絡め取っている。それがジェンダーの権力なんです。

 だから、それを相対化するのはすごく難しい。私たちは、つねにすでに、男女という絶対的な非対称性の中に絡めとられていて、私たちのひとつひとつの言動が、性別による役割分業の規範やジェンダーの規範といったものをつくっている、そのことに少しでも気づくこと、時々はそうしたことを意識してみる、ということがあってもいいですよね。

――そうか。そもそも意識していない、無意識の言動の中にジェンダー的なものが入っちゃっているんですね。

 そうです。私たちが自分を男や女だと認知するようになるのは、生まれたときから男として、あるいは女として扱われるからなんですよ。自分が自分の性を意識する前に、まず客観的な性というものを当てがわれる。そしてそれによって自分をそう認識するようになる、ということです。そういう社会に埋め込まれて、不可避的に身に付いていくものなので、なかなか相対化しにくいんですよね。

――まさにボーヴォワールの「人は女に生まれない。女になるのだ」ですね。

 女になるっていうのが、まさにそういうことなんです。

――なる。もっと言っちゃえばさせられるみたいな

 そう、させられるって感じですよね。

主体と自由

――私たちは自分の意志とは無関係に男、あるいは女にさせられる。容姿もそうですけど、自分で選んだわけじゃない性別を当てがわれる。じゃあ、主体的に行動するってどういうことなんだろうって思うんですけど。

 それはすごく哲学的な問いになりますね。主体と自由という問題は、近代哲学の中でずっと論じられてきた問題です。

 フェミニズムには「選択という名の強制」という考え方があって、たとえばある女の子が、私の将来の夢は専業主婦になることですと言ったとしますよね。本人は自由に考えて、主体的に言っているつもりでも、そこには「女性の幸福は、一生に一度愛する人の妻になり、子どもを産んで母になることだ」という意識、いわゆる「女性の幸福の神話」が刷り込まれているのかもしれない。これはロマンチック・ラヴ・イデオロギーといって、イデオロギーだから何の根拠もない信念にすぎないわけですが、それがジェンダーの規範としてすべての人々の意識を縛っているわけです。その中で生まれ育つと、自然にそう「なりたい」と自ら欲望するようになる。

――そう仕向けられるわけですね。

 フーコーは、主体化は従属化でもある、という議論をしています。ジェンダーの権力とは、誰が命令したのか誰の意志なのかわからない、具体的には権力者の顔はみえないけれども、なぜかみんなが従っている、そういう権力なんです。本人は主体的に選んだ、つまり自由な選択だと思っていても、それを選択することが「正しい」と信じ込まされている社会であればそれは強制ではないか、という考え方ですね。

 でも現代社会ではいくら何でも選択肢が一つしかないわけじゃないから、たとえ「専業主婦」が社会的に認められたみんなが評価する有利な選択肢としてあったとしても、別の道もあったわけです。

 自分がそれを選ぶっていうときには、いくつかの選択肢があるわけです。いま、新専業主婦志向といって、イデオロギーによって信じ込まされているわけじゃなく、あくまでいくつかある選択肢の一つとして、あえて専業主婦を選ぶ人が出てきています。

 主体性をどう考えるかというとき、現実の社会のなかでは、確かにそれを自分で選んだ、という感覚が大切になってくると思います。何も考えずに敷かれたレールの上を走ってきて、ある時はたと気づく、そういうことが人生にはあると思うんですね。そこで初めて自分の主体性というものを意識する。別にそれはいつでも遅くはないわけで、いままでが間違っていたわけでもない。

――いつからでも主体的になれる。

 そういう風に主体性というものを考えたいと思っています。社会構造を固定化されたものだと捉えると、そこからは絶対に逃れられないと感じられます。でも、現代社会学では、構造というのは客観的にすでに出来上がったものとして在るのではなく、常に生成されて在る、と考えるようになっています。

 行為と構造の関係を、初めに行為があって構造ができる、あるいは構造が先にあって行為を規定している、とだけ考えるのではなく、私たちのひとつひとつの行為は社会構造に規定されつつそのつどたえず構造をつくっている、社会というものは、ダイナミックに、そのつどつくられて在るものと考える。

 だから人間は、従属する主体として社会に生みだされ、そのままただ従属するだけの存在ではない、一つ一つの行為をする瞬間あらゆる選択肢が目の前に開かれていて、そこに人間の選択の自由がある、と考えられるわけです。フェミニズムにしてもジェンダーにしても、そういうかたちで女性の主体性、人間の主体性といったものを考えていけるんじゃないかと思います。

――個人的にちょっと思っていることなんですけど、いまの若い人ってよく自撮りをするじゃないですか。自分の外見を見る機会が増えたぶん、女も男も、一昔前よりも自分を客観的に捉えているんじゃないかなと。

 私は、かれこれ30年くらいは折に触れて美という評価基準について考えてきましたけど、美というものに対する考え方が変わってきていると感じることはあります。昔は美人というと、生得的なもの、ただ美人に生まれついてしまった、ということだったんですけど、今では美人が「獲得」するものになっているように思います。

 努力してダイエットするとか、髪型や服装なんかに気を遣い、いろんな化粧品を使って、それこそ今は写真でも盛ることができるので、そういった美を獲得するための努力をしない人は、向上心がない、怠けている、とみなされる、みたいなことになっています。

――美人じゃないのは努力が足りないからだと。

 昔は美人っていうのは結婚市場で得をする、つまり、権力のある人や社会的な地位の高い人との良縁に恵まれるということだったんですけど、今は美人であることがどんな職業でも要求されてしまう、まるでその職業にとって必要な「資格」であるかのように扱われる、といったことが起きています。仕事はできて当たり前、なおかつ美人であることが求められてしまう。現代社会を生きる女性たちはそういう過酷な状況に置かれてるんじゃないかって思うんです。

 そうやって、若い女性たちが自分の外見を気にせざるを得ない状況になったことで、美を一つのツールとして、むしろ冷静に見ているという感じがします。なかにはそれを逆手に取るというか、あくまで戦略的に捉えようとする人もいますが、そのことが昔のように後ろめたいような、批判されるようなことではなくなっている。

 それも一つの個性というか、それが武器になるなら、それで得をするなら、それはそれで正当な評価を受けていい、いや受けるべきだ、と考える。それが差別かもしれない、というフェミニズムの発想は今の若い女性たちにはないのかもしれませんね。

――それこそ男でも、アメリカだと太ってるだけで仕事ができないと見なされるみたいな。

 そうですね。もうだいぶ前から肥満というのは自己管理ができていないという意味で、一流の企業のなかには、職場の評価や査定と結びつける傾向がありますね。

――タバコがやめられないとかっていうのもそうですよね。

 そうですね。

――そういうのはどう思われますか。

 太っていることと仕事ができるできないは全然関係ないのにとは思いますけどね。美人であることと仕事の能力が関係ないのと同じように、太っていることと仕事の能力も関係ないわけですから、あまり行き過ぎると、それはやはり「差別」だということになると思います。